「…なんで、そんなに逃げるの?」

現在、目の前には私に押しかぶさるように両手で退路を塞ぐ菊原さんの訝しげな顔。
そして、背中には菊原さんに追い詰められて辿り着いた菊原さんの部屋の最奥、ひやりと冷たい壁を感じる。

「…に、逃げてませんから…。だ、だからそこを退いてくれませんか?菊原さ、」
「ますます逃すワケには行かなくなったね。」

菊原さんの片唇が上がり、ふっと笑われた。天井照明が菊原さんに隠れて、菊原さんの輪郭から柔らかく光を零すからますます彼の微笑みは妖艶に見せられ瞳が揺れてしまう。





何故このような形に至るになったのか、事の顛末は慣れない彼の呼び名にあった。
パリ留学で私は彼に『千尋』と呼んで欲しいと言われた。出来るだけ彼の名前を、しかも呼び捨てで呼ぼうと努力するのだけれど。
やはりこれまでの彼の呼び名が染み付いてしまって思わず、彼の前で『菊原さん』といつものように呼んでしまったのだ。

パリでも『菊原さん』と呼んだことによる罰を何度か受けたけれど、日本に戻って来てからは初めてだった。
しまった、と口を塞いだ時には、既に遅く、その呼び名は彼の耳に届いていていた。
『何、知っていてわざとやってるの?』なんて涼しい顔で言われて、あっという間に壁ぎわに追い詰められ、今に至る。





「あ、あの…ち、ちひ、ろ…?」
「何で疑問系なの?それも煽ってるようにしか聞こえないんだけど?それに今更呼んだって遅いことわかってる、よね?」
「や、あの、ここ四つ葉荘ですし!」

悪戯に揺れる彼の瞳から逃れる如く、その繊細な体を押してはみるものの、びくともしない。
私がたじろぐ度にクスクスと千尋の楽しそうな笑いが零れて来る。

「四つ葉じゃなかったら、いいわけ?」
「そ、そうじゃなくて…、」

もうわかっている、私が千尋には絶対に適わないってこと。それを知っていて千尋は私の抵抗を巧く引っ張り出すのだ。わざだから悔しいけれど、いつも私は彼の手中にいるんだ。

抗議をする私の目の前からすっと唇を私の耳に寄せると彼はそっと囁く。
ぞわり、その小さく低い声は私の体に瞬く間に広がり鳥肌を立たせた。

「千尋って10回言ってくれたら逃してあげるよ。」
「じゅ、10回!?」
「嫌なら罰を受ける?防音効果は一応備わってるよ?」

いや、そういう問題ではなくて…。
彼の瞳は余裕を含んだ本気を抱いている。もうこの際、出された課題をクリアした方が賢いのかもしれない、そう思って、すっと息を吸った。

「…千尋…、」
「…1回。」
「…千尋…、千尋…、」
「…2回、3回。」

4回目の彼の名前を呼ぼうとして再び呼吸をしたときだった。

「…ちひ……んっ!」

私の唇から零れた彼の名前を押し戻すかのように、千尋の熱い唇に口を塞がれて、壁に押し付けられた背中がぐっと圧迫される。

「…っ、これじゃ…言えな…、」

唇の隙間を酸素を探るように藻掻いてみるが、なかなか千尋は唇に潜ったまま、離してくれない。

あと7回も、呼ばないといけないのに…。





酸素不足で涙が零れ落ち、指の先がじんと痺れてゆくのを感じながら、私はゆっくり瞳を閉じる。
そして千尋とともに深く深く唇に潜った。

口から言えないのならば、それでいい。
口から口へ名前を注ぎ込むように私は彼の名前を呼び続けた。





call my name






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