きっかけは実に些細な事だった。……だったと思う。つまりは、そんな思い出せない程くだらない事がきっかけで、私は柊さんと喧嘩をしてしまったのだ。



 そもそもこれは喧嘩なんだろうか。私が一方的に腹を立てて、一方的に言いたい事を言って逃げてきたのだ。その間彼は何も言わなかった気がする。

 暫く経って、高ぶる気持ちが落ち着いたら、そもそも何に怒っていたかすら解らなくなった。
 これは只の、お子様な自分の感情の爆発だ。柊さんは何も悪くない。
 冷静になったらちゃんとそう思えた。

 理性は早く謝りに行けと告げている。
 けれども天の邪鬼でへそ曲がりな感情は、それを良しとしなかった。










 気まずい雰囲気の中で夕食をとった。
 柊さんはいつも通りで、何事もなかったかのように給仕をしてくれる。それに私の方が居たたまれなくなって、食事もそこそこに部屋に戻った。



「はあ……」



 出るのはため息ばかり。

 早く謝らなきゃ……。
 でもそもそも何を謝ればいいんだろう。
 それに威勢良く啖呵を切って部屋を飛び出した手前、謝りに行くのも行きづらい。自分が折れるのもシャクな気がする。



 腰掛けていたベッドに仰向けに寝転がり、足をぶらつかせながら、見るともなしに天井を見つめていると、お腹の虫が情けない声を上げた。……こちらは非常に正直だ。



「……なんかつまんで来ようかな……」



 そう思って立ち上がり、部屋を出ようとして――






   コンコン



 ノックの音に足を止めた。

 この扉の叩き方は――










「……はい」



 私は些か固い声でいらえを返す。
 部屋に入って来たのは、思った通り柊さんだった。









「……何の用ですか」



 謝らなければと言う意志に反して、口から出る声はトゲトゲしい。違う。こんな事が言いたい訳じゃないのに。
 それでも柊さんはちらとも動じた様子はない。ああ思い出した。何を言っても意に介さないから、それが腹立たしくて余計に怒ってたんだっけ。

 彼は手にしたシルバーのトレイを軽く掲げた。






「そろそろ、お腹がすく頃じゃないかと思いまして」



 トレイの上には焼きたてのマフィンが二つ。そして湯気の立つコーヒー。
 視覚と嗅覚で刺激されたお腹の虫が再び鳴った。真っ赤になった私を見て、柊さんはクックッと笑った。










「……カラダは本当に正直だな、志乃。
だが俺はいい加減、お前の口からも正直な言葉が聞きたいと思ってるんだがな?」



 言いながらトレイをテーブルに置く。そしてコーヒーカップを手に取ると、躊躇うことなく口を付けた。






「……ちょっ! それ、私の!」


「お腹がすいてるだろうとは言ったが、誰もアンタにやるなんて言ってないぜ?
欲しけりゃ『頂戴』って言うんだな」



 そしてマフィンを手に取り一口かじる。
 さらに一口……もう一口……



 まるまる一つが彼のお腹に消え、さらにもう一つに手が伸びたとき、耐えかねた私はとうとう声を上げた。






「……それ頂戴」


「聞こえないな」



 ニヤリと笑う彼は、私が手を伸ばすより早くもう一つを手に取ると口を開いた。






「頂戴っ!」






 手を伸ばしながら叫んだ私の腕が掴まれるのと。
 キスが降って来るのは同時だった。

 閉じていない柊さんの瞳に、目を丸くした間抜け面な自分が映っている。






「……な……な…………」


「……要るんだろう?」



 柊さんのしてやったり顔が小憎らしい。

 それは要るけど!
 確かに要るけど!

 でも。……でも。だけど!






「柊さんの意地悪!」


「こんな俺は嫌いか?」


「〜〜〜嫌いですっ!」


「じゃあ愛してないのか?」


「……それは……っ」



 ニヤリと笑みの形を作った唇が、どこまでも自信に満ちた言葉を紡ぐ。






「……愛してないなんて言わせない」






 卑怯だ。
 卑怯だ。

 どうしてそう言うことを言うの。






「……言えよ、志乃」


「愛して、」






 ます。



 語尾を言う代わりに自分から彼に口づけた。初めての私からのキスに目を見張った柊さんは、すぐに離れようとする私の顎を掴んでさらに深く口づけを返してきた。



「志乃……志乃、」



 とろけるようなキスは、私の訳のわからない怒りも苛立ちも、なけなしの理性も全部吹き飛ばして。

 完全に忘れ去られた空腹が、最大級の抗議を敢行するまで、私は柊さんに酔わされていた――







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