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 漂う魚*

※溺れる魚の続編っぽいもの(知らなくても読めます)








ただ愛されたいという単純な願望が、分不相応な高望みだと笑われ始めるのはいつからなのだろう。

それは別に、君が世界で一番だと言って欲しい訳ではない。
私だけを見て欲しいものをくれなくったっていい。

朝起きる、ごはんを食べる、夜眠る。
そういう細やかな日常に少しだけ寄り添うことが出来たら。
愛を囁く言葉も、ぴかぴかの銀食器も、絹のドレスもいらない。

たった、それだけのことが、この壁の中では傲慢なのだ。









「君は、決めた男でもいるのかね?」

突然隣の男に投げかけられた質問になまえは内心たじろいだ。

「え…?」

上質なガウンを羽織った男はゆったりと煙草をふかし、だるそうに煙を吐いた。
大きく開いた襟元からは貴族の代名詞とも言える肥え弛んだ体躯が覗く。

「いや、何だかそういう風に見えたからね」

彼の質問は図星だった。

部屋に充満する紫煙からなまえはさりげなく顔を背ける。

貴族や議員が自分を抱く時、無意識に”彼”に組み敷かれる想像をしてしまっていた。
そうすることが唯一の居場所に思えたからだ。

しかし、余計な雑念を勘付かれると任務の失敗の引き金になる可能性がある。

なまえが無意識に肩を強張らせると、男は高級娼婦に想う一人がいるのは言いづらいだろうと判断したのか苦笑した。

権力者特有の悠然とした眼差しは沼のように濁っている。
違う、私が見たいのはこの目ではない。
あの人は、こんな汚い瞳じゃない。
あの人は、煙草を吸ったりしない。
あの人は、こんなだらしがない体ではない。
違う、違う。
私が欲しいのはー

耐え切れなくなって、挨拶もそこそこに豪奢過ぎるホテルの一室を後にした。








「…どうした、今日はやけに感度がいいじゃないか」

「そ、んなこと、っあ!ふ、あぁ!」

彼に命じられた今日の役名は娼婦。名前はアデーレ。相手は地方貴族。
演じ尽くした役割はいつしか数えることをやめた。

諜報活動とは名ばかりの、兵団の為に身体を売り情報を稼ぐという下賤な任務を彼が命じたあの日から人生は一変した。

表向きは調査兵の顔をしながら、夜には上司の密命を負い裏の仕事をする。

報告の為にと深夜団長の私室に赴けば必ずベッドに連れ込まれるのが分かっていて、上官命令を言い訳に、足は逃げようとしない。
恐怖や諦めでは無いことは己が一番知っていた。

最初は随分拒絶をしていた気がするが、身体はあっという間に懐柔され、やがて精神もそれに倣った。

なまえは彼女の性感や疲労に関係なく溢れるほど与えられる快楽の波で溺れる。
気休めにシーツを握っても、熱を逃がすことは出来ない。

魚のようにぱくぱくと喘ぐ声は、しがみついた枕に吸い込まれた。

兵士の中では小柄な体格はエルヴィンがのしかかるとすっぽりと隠れてしまう。

「今日の男はどうだった」

彼は決まって仕事を終えた彼女を問い詰める。
なまえが嘲笑に答えあぐねている間にも、絶え間の無い律動が必死に呼吸する小魚を水に沈ませてゆく。

お互い兵士といえ、長身の屈強な筋肉に女が抗える筈もなく、強引な腕がベルト痕の薄れた背を布団に押し付けた。

射抜く瞳は冷えた刃の如き、氷の炎が芯に燃える。
もし彼に恋人や妻がいたなら、きっとこんな眼で抱かないだろう。

そう思うと、寂寞とした感情と愛しさがなまえの胸から溢れ出てくる。

低い声が好き。
刺すような視線が好き。
逞しい体躯が好き。
人間として女として私として彼を渇望しているのだ。

「だ、んちょ…!あ、ぁ!」

情事中に名も呼べない関係とは一体何なのだろう。

「も、ひぁ、ふあぁ!」

散々飼い慣らされた部分への刺激に視界は霞み、ぼんやりとした疑問はぬるく濁った水に流されて掻き消えた。

「答えろ、なまえ」

エルヴィンは悶えるなまえの下腹部に手を伸ばし、溶けてゆく部分の中心で主張する蕾を捏ねる。

一層悲鳴を上げうねる胎内は、怒張を奥へと誘い蠢き、それに逆らわず深く覆い被さった。

肌を湿らす水分は、汗なのかどちらの体液なのか最早定かでは無い。

「ひ、ん、わたしは…!あぅ」

どろどろと液体は言葉の代わりに布を濡らす。
私が抱かれたいのは貴方だけ。
たった一言は音になる前に泡と消える。

なまえは無骨な手によって形を変えてゆく乳房を眺めながら、心の中で問う。
この人にとって自分は何者として存在しているのかと。








その日は朝から雲行きが怪しかった。

天の底が抜けたような大雨が降り出したのはなまえが夜の仕事を終え、兵舎へ帰ろうとしていた時だった。

この視界では馬車もまともに走れないだろう。
咄嗟に軒下に身を隠し、形ばかりの雨宿りをする。
雨具も持たず、ホテルからも随分離れてしまった。
ますます激しくなる雨は、いつ止むともしれない。

なまえは忽ち霧のようにぼやけていく世界をぼんやりと眺めた。
輪郭のふやけていく町並みに歩き出せば、このまま溶けてなくなることが出来るだろうか。

叶いもしない願いは浮かべては弾け、ぬかるんだ大地に落ちる。
誰の物にもなれない体と心は、冷淡な命令を受けたあの日からずっと置き場所を求めて彷徨うのを繰り返していた。

「エルヴィン団長…」

人気が無いのを良いことに、密かに慕う男を呼んだ。

当然返事は無い。
雨音以外静まり返った冷たい壁にもたれ掛かる。
彼によって今この霧雨に置き去りだというのに、愚かな感情を手放す方法は見つからない。

愛がない場所でも雨を凌ぐことは容易い。
ただの心はこれから先も誰に差し出す事も受け取る事もないのだから。
尽きる前の炎のように気持ちは虚しさを増す。

なまえは泣き喚く空のせいでずぶ濡れの大気を吸い込み、目を閉じ壁に凭れた。

少し引けば容易く切れそうな紐は、自由ではない。畏れだ。
例え歪んだ関係でも、どこかで繋がっていられる幸福と安心を感じているのは、この仕事に馴染んだのか、心の歯車が狂ったのか。

「ねぇ、君一人?」

見知らぬ声に目を開ければ、近くの家から出てきたらしい小綺麗な身なりの青年がなまえを覗き込んでいた。

「寒いでしょ?よかったらうちで休んでいきなよ」

分かりやすく下卑た申し出に反射的に頷いたのは、あの人への当て付けかもしれない。
何れにせよ今日はもうどうでもよかった。

にやにやと下品な笑みで腰に回される手におざなりに体を寄せる。
魚には棲家がない。
ただ、死ぬまで泳ぐだけ。

軒下を離れようとした時ぱしゃりと背後で水たまりを弾く靴音。
何故か聞き覚えのある足音に振り向けば黒い影が、体を覆う。

「…こんなところで何をしている」

「団長…どうして」

フードから覗く碧眼になまえは硬直した。
エルヴィンは彼女の質問には答えず雨具を差し出す。

「帰るぞ」

「…はい」

有無を言わせぬ圧力に立ち竦む青年を黙殺し、部下に外套を羽織らせると、雨の中を歩き出す。

足元の泥濘も気に掛けず早足の上司に並べば、厳しい眼光がなまえを睨み付ける。

「お前は自分の所有者を誰だと思っている。放し飼いだと勘違いするな。私の命令なく他の男に抱かれることは許さん」

雨音に混じる低い声がじわりと胸に沁みた。
ああ、そうか。

雨具を着用しても体格の良さが分かる広い背中を見据える。

迎えに、来てくれた。

棲家はないが、戻る場所はあるのかもしれない。
どんな色の水へ飛び出しても、還元される透明な水溜り。

なまえは冷たく良い切る台詞の中に、彼の手から自分の首へと繋がる歪な鎖を確かに見た。

肩を打つ雨粒は温かい。
雨水の川を泳いで行く。








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