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 博愛なんていらないのに

ノックをして、開いた扉の向こうの男性は、少し驚いた顔をした。

品の無い口紅の色と、胸ぐりの深いドレスで何者であるかは言わずとも察したのだろう。

ある貴族の名を告げれば、一瞬間があって、半分開かれていた扉が大きく引かれる。

男に無言で促されるままそっと入室した。

荷解き前なのか、部屋は机に紙束があるくらいで片付いている。

入室を許されるのはつまりはそういう取り引きの了承だ。

いつものようにベッドに腰掛けた。

シーツはさらさら、マットレスはふかふかで、流石に高級ホテルの寝具は触り心地が違う。

お貴族様の上客は、じろりと遠慮の無い視線で私を射抜いた。

「いくらだ?」

「え」

「君の値段だよ。代金なら払うから帰りなさい」

一瞬何を言われているのか理解に窮した。

ベッドをすたすた通り過ぎ、机上のトランクを開け財布を取り出す仕草に我に返る。

「あの、そういうわけにはいきません。お金は既に頂いてますし、それに…このまま帰ったら私が怒られてしまいます」

「…困ったな」

小さな溜息が一つ。
厳密に言えば私が悪いわけではないのに、何だか罪悪感を感じてしまう。

嫌な沈黙が部屋の底に沈殿してきた。

それなりに客の相手はしてきたが、こんな状況は初めてだ。

「エルヴィン団長…ですよね」

固く結ばれた唇が一向に開かないのに耐えかねて私から口を開いてしまった。

恐る恐る顔色を伺う。

いくら世間に疎い私とて、エルヴィン・スミスの名前くらい聞いたことはある。

悪魔とか非道とか特に王都では相当な言われ様だ。

雇い主から客の名は知らされて居なかったが、長身の筋肉質な体躯と、金髪碧眼の容姿は何処へ行っても目立つ。

加えて壁外から内地まで任務に奔走しているから、彼の顔を知らない人間は少ない。

「ああ」

気分を害するでもなく、驚くでもない無表情。
ただ一言答えたきりまた黙り込んでしまった。

それは私との接触を一切拒絶しているように見える。

最近お得意様も増えてきたんだけどな。

そんなに私が鬱陶しいのかしら。

なんだか自信を無くしそうだ。

「…私のような女は、抱く気になりませんか」

本当はこの程度で傷付くほど初心ではない。ちょっとした嫌みを交えて淋しそうに聞いてみた。
普通の男ならここでおざなりに行為になだれ込む。

しかし彼は何でも無いことのように言い切った。

「いいや?君は十分魅力的だと思うよ。だが彼の計らいを受けるわけにもいかなくてね。どうか分かってくれ」

そうきっぱりと宣言されてはこちらも二の句が継げない。
大体顔色一つ変えず甘ったるい台詞を吐ける男にろくな奴はいないと言い訳し、再び黙していると男は優しげな瞳を私に向けた。

「そうだな…君が何かしなければ帰れないと言うのなら、話し相手になってくれないか」

「 …はい?」

疑問を肯定と取ったのか、有無を言わさず質問が飛ぶ。

「君はどうしてこの仕事に?」

「…ありふれた理由ですよ。没落貴族が金の為に娘を売っただけ」

別に隠す程のことではない。
貧しい金持ちの間ではよくあることだ。
多くの部下を導き、一部からは信奉すらされる眩い彼とは対極の人生。
孤高の彼が溝鼠を抱きたいと思わないのもごく自然なことかもしれない。
つい光と比べ皮肉っぽい口調になってしまう。

「団長に比べれば埃まみれの仕事でしょうけど」

「そんなことはない。どんな仕事であれやり遂げるのは立派な事だ」

即座に否定する声音はよく通り真っ直ぐで、世辞も打算も篭っていないことは大した経験もない私でもわかる。
この堕落しきった王都でも歪まぬ清い眼光は、いっそ神々しい。
彼を悪魔や非情と罵る人はどこを見ているのだろう。

「…どうも」

気恥ずかしくなって生返事を返す。
女としての役割を活かし小さな盤上の薄汚れたポーンしかやってこなかったせいで素直に褒められるのには慣れていない。

こんな豪奢な部屋でこんな立派な人と対峙しているのが酷く滑稽で馬鹿らしくなってきた。

「…やっぱり帰ります、ご迷惑でしょうし、クライアントにはなんとでも誤魔化しますよ」

商売女が引き際を弁えないのはみっともない。
派手なドレスを見せつけるよう堂々と立ち、扉へ向かう。

「恩に着るよ。すまないね」

当たり前のように扉口まで見送ってくれる一連の動作は、いかにも女慣れしていそうだ。
男慣れしている私が言う台詞ではないかもしれないが。

「君の名は?」

「なまえです」

営業用の笑みで、爽やかに源氏名を名乗る。
この仕事で身に付けたことの一つだ。

「…男としては本当は女性に何もせずに帰すというのは忍びないんだ」

耳元に聞こえた小さな呟きに驚いて顔を上げれば、するりと手首を掠め取られる。

いかにも兵士らしい骨太な指にあっという間に口元に導かれ、柔らかな感触が肌を穿った。

わざとリップ音を際立たせ離れる唇。

強引ではないのに抵抗できないのは、文句のつけようなくあまりに美しくエスコートして見せるからだ。

女遊びが趣味な令息が使いそうな常套句が耳を擽る。

「なまえ、政治や金が絡まなければまたお会いしたいね」

「…喜んで」

こなれた返しなら腐る程学んできた筈なのに、そう言うのが精一杯だ。

「ではおやすみ」

扉が締め切る前に屈託ない微笑みから逃げる。

手の甲と頬のの消えない熱を風に晒すため、足は早まった。
ばたばたと品の無い音を廊下に響かせ、緋絨毯を踏みつける。

「何なのあの人…!」

悔し紛れの言葉は窓を染める夜の帳に虚しく響いた。







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