スパイスは砂糖
なまえは格闘していた。
というのも、提出しなければならない重要な書類をうっかり風に攫われてしまったのだ。
幸い書類は窓際の木に引っかかったものの、めいいっぱい手を伸ばしてもぎりぎり届かない。
いい加減腕がつりそうだ。
なまえは室内の壁時計を一瞥する。
急がなければエルヴィン団長が来る時間になってしまう。
最終手段として窓枠に乗り出した。
サッシに足をかけ、上半身を大きく前に倒す。
このまま手を伸ばせばなんとか枝に届きそうだ。
精一杯腕を引きつらせ、書類まであと数センチ。
自分で自分を励ましながら、更に体を窓の外へ出す。
ようやく紙の端を掴んだその時、あろうことか片膝が窓枠を滑った。
体は重力に従いあっという間に落下して行く。
いくら下が芝生と言えど、この高さでは脚の一本や二本折れてもおかしくない。
「ひぎゃあああっ!!?」
なまえは素っ頓狂な悲鳴と共に、地面へその全身をぶつけた。
どさりと鈍い衝撃音が耳に響く。
「う…」
恐怖に瞑っていた目をうっすらと開き、視界を確保する。
幸い中庭の芝生に落ちたお陰か思っていた以上の痛みは無いようだ。
いや、そもそも自分は地面より少し高い場所にいる気がする。しかも草にしては頬に触れる温度は随分温かいような。
そこまで考えて一気に血の気が引いた。
この柔らかな布の感触はまさか。
「っと…怪我はないかな」
「ひっ!え、エルヴィン団長?!わああぁすみませんすみません!!!!」
なまえはその落ち着いた声に自分が下敷きにしていた人物から飛び退いた。
乱れた襟元を整え立ち上がったのは紛れもなく彼女が案内することになっていた調査兵団第13代団長エルヴィン・スミスその人である。
一兵団のトップを度派手に組み敷くなど失態どころの騒ぎではない。
こんなことで許されるとは思っていないが、ひたすら頭を下げ謝罪する。
その光景を面白そうに眺めていたハンジは堪らず吹き出した。
「ぶはっ!大丈夫大丈夫、調査兵は普通の人間よりよっぽど頑丈に出来てるから。このくらい何てことないよ」
「そういうことだ。君は確か…」
そこで初めてハンジが居ることに気付いたなまえは来客二人を見比べながら慌てて名乗る。
「は、はい、議員秘書のなまえです」
「そうだったね。ふ…なまえ、君がお転婆娘だとは知らなかったよ」
普段の会合ではどちらかと言えば表情の乏しい印象のあったエルヴィン団長に笑われてしまった。
頬が一気に熱を帯びる。
今までそつなく仕事をこなす秘書を装ってきたのが水の泡だ。
エルヴィンは女性らしい長い髪に絡まった葉をゆったりした動作で取ってやり、指先で弄ぶ。
ますます染まる頬を楽しむように、芝生に散らばった書類を拾いわざと手が触れるように渡してやる。
「脚は問題無いか?痛むようなら負ぶって行こうか」
「けけけ結構です!!あ、あの先行ってお待ちしてますから!!」
自分にだけ向けられた美しい青い瞳に耐え切れなくなったなまえはくしゃくしゃの書類を腕にかき抱き、会議室へ向け一目散に走り出した。
「あはは!面白いねあの子!」
「可愛らしくていいことじゃないか」
ハンジは嫌な予感に上司を盗み見る。
仕事中は努めて威厳を保つ横顔も今は横顔は好きな女の子にちょっかいを出す少年のそれだ。
「からかっちゃ駄目だよエルヴィン」
「そんな事していない」
兵士には無い華奢な後ろ姿を楽しげに眺める彼にやれやれと肩をすくめ、厄介な男に目をつけられた彼女を憐れんだ。
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