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 One for the road

その客は、決まって月に一度だけ来る。
それも、人もまばらになった閉店間際に。

初めて彼が来た日の事は鮮明に記憶している。
酔い潰れた客をやっと帰らせ、片付けに取り掛かろうとした時だった。

まだ開いているかな。

それはひどく悲痛で弱々しく聞こえた。
店内に落ちる暗い影の元を辿る。
疲れきった声とは真逆の、底抜けに明るい空色の瞳。

いつもの私なら断っていただろう。
けれどその時は、何故か、どうぞと口走っていた。




清潔で整った容姿のいかにも育ちが良さそうな男が、路地裏の更に奥の寂れた安酒屋のどこが気に入ったのか知らないが、彼は定期的に通ってくれるようになった。

最初の晩はカウンターの隅で静かに強い酒を煽っていたのが、いつしか私の前でボトルを開けるようになっても訪れる時間と月に一回の頻度は変わらない。

男の名前はエルヴィンといった。
調査兵団の分隊長をしているらしい。
こんな場所で仕事の話をするのは野暮だから私は何も聞かない。

今日も最後の客が帰った後に彼は来て、ウイスキーを注文する。
たまにジンやブランデー、ウォッカを頼むこともある。

「少し、意外でした」

琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
ランプに揺らぐ青い瞳が何がだと問う。

「失礼ながら、最初はこういう場所の苦手な、お堅い方かと」

客は口の端で皮肉っぽく笑った。
昼間の彼を知らないが、きっと普段はこんな風に笑う人ではないと思う。

「そうでもないさ」

「そのようですね」

お酒は上品なものより辛口の強いもの、鉄仮面に見えて実はわりと表情に変化があって、寡黙なようで冗談好き。

さぞかしもてるであろう端麗な外見とは裏腹に、粗野なところが彼にはある。

街中の小娘なら失望するかもしれないが、私にはこちらの方が居心地が良かった。

キープを頼まれたボトルは半分程減っている。
彼は決まった量だけ飲んだら必ず帰ってしまう。
自分の許容量も弁えず浴びるように飲んで女に絡む掃き溜めみたいな連中も珍しくないから、粗雑なくせに随分と理性的な人だと思った。

「エルヴィンさんは、ご結婚はされないの?」

酒場の女の勘で独り身だという確信があった。

「野蛮な兵士を夫にしたい者なんていないさ」

それはきっと嘘だ。
これだけの器量と表向きの人当たりの良さがあれば、たとえ調査兵団の兵士でも言い寄ってくる女など幾らでもいる。

「君こそ、結婚はしないのか」

「こんな安酒屋の女、貰ってくれる酔狂な人はいませんよ」

薄汚れた店で、理念も闘志もなく生きて、この人とは真反対の生活だ。
惚れた男や惚れられた男がいなかったわけでは無いが、上戸しか取り柄のない女と添い遂げたいとまで思う人はいないだろう。

「そんなことはない、友人で酒場の女性と結婚した男を知ってる」

慰めているつもりなのか、珍しいこともあるものだと少し可笑しくなった。

「あら、じゃあ誰かいい人紹介してくださいよ」

冗談交じりに冷やかせば、澄んだスカイブルーが一瞬にして曇る。
眼窩の影はどこまでも暗く深かった。

「…やめておくよ、私のまわりは君を置いて死ぬかもしれない連中ばかりだから」

寂しげな響きに耐える為にカウンターの下で己の手首を握り締めた。

「…貴方も、ですか」

調査兵団が壁外調査へ赴くところは店の備品を買うついでにたまに見かけたことがある。
私とは棲む世界が違う人達に、特別感情は抱かなかった。

けれど今日の昼間、兵士達が壁外調査から帰還に偶然遭遇したのだ。
ぼんやり眺めていると、見物人の間から見慣れた金髪が目に飛び込んできた。
誰のものかも分からぬ血に汚れたマントを羽織る彼の背中を。

そして、気付いてしまった。

「貴方がここに来るの…壁外調査から帰った日だったんですね。」

彼も全てを悟ったのだろう、歪んだ笑みは自嘲か苦しみか。

「…部下を何十人と殺して、自分は呑みに行くなんて薄情な上官だろう」

「…思いません。貴方が決まった量しか飲まないのは…酔わないようにしてるんじゃなくて、酔えなかったんですね」

長身がゆっくりと立ち上がった。
椅子を引く無機質な音がお互いの隙間を穿つ。

「……今日はもう帰るよ。遅くまですまない」

答えの代わりに男は空のグラスで紙幣を挟み、出口に向かう。
今ここで見送れば二度と会えない気がした。
いてもたってもいられず、咄嗟に広い背を追った。
自分にまだこんな情熱が残っていたことに驚いている。

半ば反射で掴んだ手首はアルコールのせいか熱い。
立ち止まってくれた客にたかが酒場の女が言える言葉はひとつしかない。

「また、来月も来て下さいね…待ってますから」

誰が死んだのか、何を背負っているのか、私は何も知らない。
けれど昼間の彼がどんなだって、束の間の休息が許されない筈がない。
一緒にお酒を飲んで、取り留めない会話をしたとして誰が責めようか。
彼は彼自身を縛り、それすら捨てるのか。
そんなこと、私はさせない。

「ん、」

磨かれた硝子玉が近づき、視界を塞ぐ。
口腔内を蹂躙する舌は彼好みのウイスキーの味がした。

兵士らしい腕力で抱き締められると逃げることも出来ず、ただ乱暴な口づけに身を委ねた。

息継ぎの合間からぽつりと呟きが耳に届く。

「願掛けしているんだ」

私が何か言おうとする前に、再び生々しい舌が歯列をなぞり、言葉を失くした。

「君に会ったら、生きて帰れると」

腰をなぞるかさついた指先、舌のざらつき、生温い唇、彼の存在全てが息をし、私の感覚を際立たせる。

「子どもじみてると思うかね」

自らを嘲る低い声は、突き放した声音の様で何処か優しさを捨てきれていない。

「…とっても」

裾を引きせがめばまた落ちる唇に目を瞑った。

この夜が昼間は隠れた彼の激情を浮き彫りにすればいい。

飽和し溶解する欲に浮かされながら、明日が一日でも永く続くようにと願った。









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