リセット
「いやー久しぶり!」
なまえは調査兵団の支部に向かい独り言にしてはいささか大きな声で独りごちた。
勝手知ったる他人の庭と、案内してくれた兵士より先にドアを開ける。
「やっほースミス団長!総統の親書持ってきてあげたわよ」
案内役の部下が戸惑っているのを一瞥し、エルヴィンは嗜める。
「なまえ、少しは礼節を弁えろ」
「相変わらずお堅いわねーはいこれ」
それ以上は言っても無駄だと思ったのか特に追及はせず、簡素な礼に留めた。
「有難う助かるよ」
受け取ろうと伸ばした手から、なまえは封筒を取り上げる。
「あら、お礼なんていいのよ?これは貸しだから」
エルヴィンは意味あり気な微笑みに睨みを返した。
「…何が望みだ」
暫くして二人は厩舎に居た。
「少しだけだぞ」
「はいはい」
エルヴィンの手を借り馬に跨る。
一気に開けた視界に歓声を上げた。
美しい毛並の白馬は飼い主に手綱を引かれながら、ゆっくりと兵舎裏を闊歩する。
この時間兵士は殆どが近場の森まで訓練に出かけているらしく、閑散とした庭は鵯が涼しげに鳴くのみであった。
日頃怠慢な憲兵団に所属していると、馬で駆ける機会などそうそう無いのだ。身体はとっくになまっている。
勿論憲兵だからといって他の例に漏れず仕事をさぼっている訳ではないし、それはエルヴィンも分かってくれているが、それでもやはり命を懸ける調査兵団とは違うと感じる事が多々ある。
訓練兵の宿舎で共に夢を語った仲間達ともいつの間にか歩む道は大きく違っていた。
親書の配達という面倒な役を引き受けたのは、馴染みに久々に会いたかったからだ。
勿論こんな事を口にするとこの男は調子に乗るので絶対に言わない。
「いつもあんたに見下ろされてたから良い気分だわ」
半分は本心で半分は日頃何かとからかってくる同僚へのささやかな反発である。金髪が下にある眺めは新鮮だ。
蹄の音と馬具が擦れ合う音が耳に心地よい。
「変わってないななまえ」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
咎める視線をさらりと躱され、なまえは消化不良な思いで向き直る。
「ナイルは元気か?」
「相変わらず鬱陶しいわよ。この前も子どもの肖像画見せられたわ」
「はは、そうか」
とりとめのない会話を続けていると、仲間たちと未来を語り合ったあの頃に戻った気さえする。
もう同期は随分と少なくなってしまった。
「やあエルヴィン!なまえ!」
ふいに前方から近づいてくる影に馬は立ち止まった。
駆け寄ってくる眼鏡の兵士に目を凝らす。気さくな掛け声からしておそらく彼の部下だろう。
しかし初対面の筈の人間に名を呼ばれたことに疑問を覚えた。
「どうして私の名前知ってるの?」
素直に尋ねるなまえにハンジもきょとんと首を傾げる。
「君の名前?いや、知らないけど何処かでお会いしたかな」
「だってさっきなまえって…」
「ん?馬の名前のこと?」
じゃあまた後でと足早に去る兵士の姿が見えなくなったところで彼女は同僚をぎっと睨み付けた。
「ちょっとエルヴィン!どういうつもりよ!」
「君だって昔拾った犬に俺の名前を付けただろう。仕返しだ」
訓練兵の兵舎に迷い込んでこっそり飼った仔犬の話なら、言われてやっと思い出す程昔のことである。
「はあ?!いつの話よ信じらんない!!」
今日ばかりは彼の記憶力を呪った。
「何とでも言え」
開き直っているのかエルヴィンに悪びれる様子は微塵もない。
それどころか自分を責めるなまえを楽しんでいるようにすら見える。
「今すぐ名前変えなさいよ」
「無理だ。もうこの子は名前を覚えてしまったからね」
賢そうな面構えをした白馬を撫でる彼になまえは呆れ果て、非難するのが馬鹿馬鹿しくなった。
「もう帰るわ、さっさとどいて」
強引に馬を降りようとすれば、無骨な手が差し出される。
渋々厚い掌を握った。
「なあなまえ、馬の名を変えることは出来ないが詫びに今度飲みに連れて行ってやろう」
それが男がよく使う文句だと気付くのに数秒要した。
彼がそういう常套句で女を誘う人間だと思わなかったからだ。
まるで初心な若者みたいな不器用さになまえは笑みが止まらなかった。
「もうちょっと上手に誘えないのかしら」
「生憎と訓練兵団に口説きの講義はなくてね」
こなれた返しはいかにも手練れのそれであるが、久方振りに見つめられた青い瞳は清流のように瑞々しい。
昔からそうだ。
試験の結果に落ち込んでも、恋人に振られても、真っ先に私を励ますのは彼だった。
荒んだ世界に歪んでも、真っ直ぐな青い光に導かれ正しい場所に戻されてゆく。
「仕方が無いから付き合ってあげるわ」
「それはありがとう」
エルヴィンに手を引かれ大地を踏みしめたなまえは、肺の隅々まで空気を吸い込み歩き出した。
これから失われていくものも沢山あるだろう。
けれど新しく創られる絆だって、きっと有るはずだ。
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