book | ナノ
 ベルベット・ルージュ後

「なまえ、何してるの?」

「あ、すぐ行く!」

壁外調査一時間前。

最終点検や確認で、壁外に行く者も行かない者も、皆忙しくなる。

声を掛けてくれた同僚が去ってから、窓に向き直る。

相変わらずぱっとしない顔がガラスに映っていた。

「…よし」

一つに束ねた髪の上に、手早くリボンを巻きつけて、解けないようしっかりと結ぶ。

団長は褒めてくれたが、こんな高級な赤、私には似合わないとつくづく思っている。

普段は机上の飾りと化しているリボンを、壁外調査の日だけは結ぶと決めていた。

それは、一種の願掛けだ。

真っ赤な赤で気を引き締めて。

陣頭に立ちながら、何度も死線をくぐり抜け生き残っている団長に似合うと言われた色を身に付け、必ず生きて帰ろうという決意の証に。

私みたいな凡人が生き永らえて何の役に立つのか知らないが、例え僅かでも出来ることはある筈だと、誰だってそう思いたいのだ。






「長距離索敵陣形、展開!!」

団長の号令が平原に響く。

一斉に離散した馬はみるみるその間隔を広げていった。

今回私が配置されたのは、指揮班。
壁外調査時にここまで団長と近くなるのは初めての事だ。

もちろんこの状況で惚気が起きようもなく、せいぜい私の名前が覚えられていたことを光栄に思うくらいで、頭の中にあるのはただ目の前の任務を精一杯こなす事だけだ。

遠くで赤い煙弾が空に上がる。

前を行く団長は次々と上がる狼煙の動きを眺め、天高く緑の煙弾を打ち出す。

壁からかなり離れ、見渡す限りの平原に馬の襲歩が響く。

「団長、奇行種です!陣形に侵入して来ます!」

そう叫んだのは、団長の副官だ。

遠くから地響きと共に黒い影が迫ってくる。
取りこぼしか、あるいは索敵班、伝達班が壊滅したのかー。
奇行種の周囲には人影が殆どない。
残念な事に後者だろう。
いずれにしろこの平地での立体機動は人類に不利だ。

「なまえ、指揮を執ってみろ」

「?!」

馬の足音の中でもよく通る声にはっとした。
上に広がる空と同じ色の瞳が射抜く。

「で、ですが…!」

そんな重役が私に務まるわけがない。
この人はいきなり何を言い出すんだろう。

「落ち着け。まず状況判断を。」

「っ、はい…」

パニックになりかける頭を宥め、手綱を握り直し周囲を見渡す。

目標との距離およそ200。
このまま逃げ切れる可能性は低い。
団長に指揮を指名された以上私が動く訳にはいかない。

奇行種は真っ直ぐこちらに走ってきている。
他の班に伝達をまわす時間も、彼等がここまで駆けてくる時間もないだろう。
ならば、この班から誰かを選んで討伐に向かわせる他ない。
最低二人。

今、ミケ分隊長やハンジ分隊長を失うことは出来ない。万が一大部隊の隊長達を失えば、この陣形全体の打撃となる。

「なまえ」

団長に再度促され、心臓が跳ねる。
もう迷っている暇はない。
決断が遅いほど被害は増える。

団長の副官と近くの一人の名を呼んだ。どちらも討伐実績が高いからだ。この二人ならばきっとやってくれる筈だ。

私に名指しされた彼らはすぐに指揮班を離れた。

二人を残し、班は奇行種を横切り予定の進路を目指す。

それから部隊が補給場所に着いても、そして壁の中に戻っても、彼等は帰ってこなかった。






「なまえ、エルヴィン団長が呼んでる」

「え…?!なんで?」

壁外調査十日後、ある程度の書類仕事は終わっているし、今日は特に事前の補佐要請も受けていない。

こんな急な呼び出しは初めてのことだ。

「さあ、知らないけど」

同僚は素っ気なく答えて部屋を去る。

団長に会うのは気が重い。
あの日からまた何ら変わりのない生活が続き、それが一層苦しかった。

どうして私が指名されたのか。
どうして私が生きているのか。
考えても考えても分からない。
私が判断しなければ彼等は死ぬことはなかったのに。

そっと後頭部の結び目に触れる。そこには簡素な髪紐があるだけだ。
リボンはあの日何処かに落としてしまった。きっと壁外だ。もう取り戻すことは出来ないだろう。
でもきっと、これで良かったのだ。
私には分不相応なものだったから。






ドアを三度ノックして名乗る。団長室のノブは氷みたいに冷たい。
執務机の前で敬礼する。

「どのようなご用件でしょうか」

「君を新しい副官に任命しようと思う。やってくれるか」

さらりと吐き出された言葉に思考がついてこない。
私を見上げる真剣な瞳が冗談でも夢でもないと言っていた。

壁外調査に行く前の私ならどんなに喜んだだろう。
けれど私にはその資格がない。
彼の大事な部下を殺したのは私だ。
その代わりを務める責任は余りにも重過ぎる。

「…無理です。そんな大役、私にはとても」

「謙遜か?現に君は、今までだって私の補佐を問題なくこなしてきたじゃないか」

その言葉に自然と拳を握りしめていた。
”捨てておいてくれ”
感情のない突き放した台詞が蘇る。
その命令通りに切り捨てることが貴方の望む事で、業務をこなすという事なら、私には到底務まらない。

頭の中で糸がぷつりと千切れた音がした。

「私の部屋の引き出しの中は、手紙で一杯なんです」

「……?」

団長の眉が顰められる。
当然だ。
私も彼に楯突く日が来るなんて思ってもみなかった。

「ラブレターです。貴方宛の」

「…何が言いたい」

私を見据える眼光がぎろりとした持つ。
目力に怯みそうになったが、ここで妥協しては駄目だと思った。
ぐっと拳に力を込める。

「私は捨てることが出来ません。貴方の側にいるには相応しくありません」

団長は我儘で無責任な発言に呆れたのか黙してしまった。
きっと一瞬であろう沈黙は永遠にも感じられた。

「凡人」

「…はい?」

やがて呟かれた単語にどきりとする。

「君は自分のことをそう評価する口だろう」

「何故、」

何故知っているのですか。
問う前に団長が口を開く。

「だがなまえ、手紙を頼まれる前から重要度順に整理出来、壁外においても初めてにも関わらず瞬時に的確な状況判断をした副官は今までいなかったよ。君は十分優秀な部下だと思うが」

彼は中途半端に慰める人ではないから、本心で言ってくれているのだろう。
けれど心中は私を査定する為に壁外で指揮をさせたのか、そんな不審が過る。
違う、これは私の弱さだ。
部下を育てるのには必要な工程だ。団長は私を信じて任せてくれた。それなのに。

「…それとも、この間のことを気に病んでいるのか?だとしたらお門違いだな」

何も言えないで俯いていたが、椅子を引く音にはっとして顔を上げた。
いつだって彼の瞳に宿るのは強く深い光だ。

「君を指名したのも、彼等を指揮班に配属したのも私だ。彼等を殺したのは巨人であり、私なんだ。君じゃない」

ああ、そうだ。

この人は今回私が経験した犠牲や苦しみを何百回と味わい、全てを背負ってきているのに。
それなのに私は何を立ち止っているのだろう。
今すべきことは迷うことじゃない。
独り高みに立つ彼の側で少しでも助けになれるのなら。

「捨てるのは私の役目だ。副官になったからといって、君が私のようになる必要はない」

心の霧が晴れていく気がした。
染み込んだ言葉が芯となり私を大地に繋ぎ止める。

団長は私の覚悟を読み取ったのか、表情が一瞬和らいだ。
そして徐に執務机の引き出しから紐上のものを取り出す。
手に握られているのはなくしたはずのベルベットのリボンだ。

「それは…!」

どうして彼が持っているのか、いやその前に、

「壁外調査から帰った日、廊下に落ちていた。君のだろう」

どうして私の物だと知っているの。

「私が結んだんだ、忘れたりしない」

呆気に取られていると、団長が考えを読んだかのように続けた。

「着ける場所が違ったな」

しゅるりと、あの日のようにリボンが結ばれる。
しかし赤に飾られたのは、髪ではなく首だ。

「なまえ、これは首輪だ。私から離れるな」

どんな時でも、私を見てくれている人はいる。
久々に見上げた空は雲もなく澄み渡っていた。

「…はい」

ラブレターを読まないのは、彼の優しさだ。
応えられないものに情けをかけるのは時として残酷だから。

それでも、団長が何年も前のささやかな出来事を覚えてくれていたように、私は見落としそうな小さな事を手の届く限りは取りこぼさないでいたい。

だから彼が捨てたものは、私が拾おう。






「団長、手紙を預かってきました」

「有難う、置いておいてくれ」

副官に昇進してから一月が経ち、仕事にも多少慣れてきた。
団長のこなす書類の多さには驚かされる。上司の助けになるには程遠く、まだまだついていくのがやっとだ。

大量の手紙を重要度順に並べるのも我ながら早くなったと思う。

あの時首に結ばれたリボンは流石に人の目が気になるので襟元に落ち着き、今度は壁外調査以外でも肌身離さず身に着けている。

それから変わったことがもう一つ。

「これは如何なさいますか」

色とりどりの手紙の束を手に尋ねる。

団長は私の手元を一瞥し、

「………君に任せる」

就任以来ラブレターを捨てろとは言われなくなった。

調査兵団のトップが小娘に譲歩しているのが可笑しくて、つい含み笑う。

「上機嫌だな。何か良い事でもあったのか」

団長に見つかってしまって慌てて誤魔化した。

「…秘密です」

「おや、私に隠し事とはいい度胸じゃないか」

悪戯めいた大きな目に、危うく手紙を取り落としそうになった。

「い、意地悪しないでください!」

私の反応に満足したのか、団長は意味深に微笑んで書類仕事に戻る。
よく観察していると意外と表情のある人だと最近気づいた。

ペンを走らせる横顔は凛々しく、世の女性が叶わないと知っていても愛の告白をする気持ちはわかる。
でもこの立場になってからは、眼窩の影や目元の皺が刻まれるまでにどれだけの重圧や痛みがあるのかひしひしと感じる。
それは当時の淡い憧れではなく、もっと深くまで寄り添う心情だ。

私か彼の命が天に捨てられるまでは、それが例え愛や恋じゃなくても一緒にいる。
そう思うと過酷なはずの道でも心に凪が訪れた。

「団長、このラブレター、読みたくなったらいつでもおっしゃってくださいね」

「………考えておくよ」

また私の部屋の引き出しに彼女達が増えてしまう。
もし一生読まれることがないとしても、彼女が、エルヴィン・スミスが、私が生きた記録として大切にしまっておく。














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