比翼の帰巣
※隻腕ネタ
ランプ一つの灯りを頼りに病室の扉をそっと開く。
「なまえか?」
暗闇に穏やかに溶ける声。
音を立てないようゆっくりとノブを戻した。
「起きてたの。ていうかちゃんと寝てるの」
「ああ、今日は目が冴えてね」
額にじわり滲む汗と目元の隈に、嘘であることは一目瞭然だ。
知らぬふりをして、傷口を揺らさぬようベッド脇にゆっくり腰掛ける。
「いつ来るのかと思っていたよ。まさか君に夜這いの趣味があるとは知らなかった」
「…冗談やめて…」
咄嗟に握った左手は、驚く程熱い。
怖くて、隣の顔が見えない。
「何で捨ててきたのよ。貴方の手、好きだったのに」
振り絞るように喉から出た声は、声帯に焼け付いて掠れた。
エルヴィンが悪いわけじゃない。
誰のせいでもない。
ただ感情を吐き出すことしか出来ない私は、どうしようもなく愚かだ。
「…それは悪いことをしたね」
愚かな私を甘やかす男は、重ねた手を握り返した。手首の脈が私の左手になだれ込み、確かに在る感触に体が震える。
大柄で筋肉質な体躯に似合った分厚い手のひらと太い指。
私の頭なんかすっぽり包んでしまう。
ごつごつした関節。
指の腹のペンだこ。
少しかさついた皮膚。
短く揃えられた爪。
私の髪を弄び、腕に入れ、掻き抱いた。何度だって。
全部ぜんぶ、愛おしかった。
私が大切にしてあげたかった。
とてつもないなにか大きなものが欠けた気がして、私は簡単に立ちすくむ。
「どうするの、これから…」
自分でも笑えるくらい情けない弱音が吐き出される。
親鳥に縋る雛の如く、私はこの人に頼っていたんだと、取り返しがつかなくなってようやく思い知る。
「どうもしないさ。今迄通り私に出来ることをやるだけだ」
ふとエルヴィンが視線をやった窓の外は底無しの闇が広がり、虚空から生えた手が今にも私達を引きずり込みそうだ。
途端に恐ろしくなって、理由の無い焦燥感が迫る。
誰にも奪われないよう、胸元に身を寄せ彼を庇った。
「エルヴィン、せめて貴方が死ぬまでは、ずっと一緒にいる」
「ああ、離しはしない」
私の腰を引き寄せる力は片腕とは思えない。
額に触れる髭がくすぐったい。
吐息も、瞬きも、衣擦れの音も、あらゆるものが生を主張し生きた証を刻む。
痩けた頬を捕まえて、唇を塞いだ。
せめてこれ以上失うことのないように。
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