ララバイ side E
背後で寝ていた男が低く呻いて身を起こす音がした。
「眠れないのですか」
「いや…寝ていたが…少し悪い夢を見た」
頭を垂れる男の頬には汗が一筋伝う。
声に昼間の覇気はない。
「君と居るのに悪夢を見るとはね」
冗談めかしたその台詞も、もう何度目になるだろう。
壁外調査後の夜は決まってこうだ。
書類仕事が溜まると、団長の私室に篭って交代で仮眠を取りながら仕上げる。
ほんの一時間程度の睡眠も、彼の背負ったものは許してくれない。
公私共にパートナーだと、そう言えば聞こえはいいが、私が出来ることなど微々たるもので。
「水をお持ちしますか」
「いや、いい。それより、交代するよ」
腰を上げようとするのを軽く手で制す。
「ですがまだ三十分も経っていません」
「目が醒めた」
ベッド傍に腰掛けて深く長く息をつく背中は随分疲弊している。
よほどの悪夢だったのだろう。
内容は聞かずとも察することができる。
「子守唄でも歌いましょうか?それとも絵本の読み聞かせでも」
「意外だな、君がそんな冗談を言う女だとは思わなかった」
「お互い様ですね」
渇いた笑いと共に後ろから伸びた手が、机上の書類を取り上げた。
「もうこんなに終わらせたのか。すまないな、君も休んでくれ」
この人がこなす書類の量には到底及ばないのだが、お世辞を言う余裕はあるらしい。
「いえ、団長こそもう一度横になられてください。まだ疲れが取れていないでしょう」
寧ろ夢のせいで余計に疲れている筈だ。
せめて私と居る時は無理をして欲しくないと思うのは、部下としてのプライドだろうか、女としての願望だろうか。
「よく眠れるよう温かいお茶でも淹れますね」
立ち上がったその瞬間、腕を引かれ大きくバランスを崩し後ろに倒れ込む。
書類が数枚床に落ちた。
「私を寝かせたいなら一緒に寝てくれ」
抱き締められた体温が腕の中に篭る。
鼻頭を首筋に擦り付ける仕草はさながら大型犬だ。
「ですがまだ仕事が」
形だけ机に伸ばした手を、大きな掌が掬う。
「朝仕上げればなんとか間に合うさ」
団長の持ち前の強引さで、私の体は布団の中にずるずると潜った。
額に汗で張り付いている前髪を指先で分ければ、夜だというのに真昼の真っ青な瞳が視界を捉える。
青空の一番高い部分の高潔な色は、寝起きのせいか薄っすら潤み輝きを強めていた。
胸板に押し付けられた肺が酸素を取り込もうと深く息を吸う。
腕の中の空気はほのかに残った彼のコロンが香った。
冷や汗と混じった男の匂いに心臓を高鳴らせる私は、どうしようもなく人間なのだ。
「君の、」
熱い吐息が耳元を擽る。
「君の寝息を聞いていると、眠たくなるんだ」
呟きの後半は布団に沈み、肉体の重みが二の腕にのし掛かった。
「…おやすみなさい」
金の睫毛に縁取られた瞼の奥にある青を醒まさないように囁く。
恋だろうが愛だろうが信頼だろうが、どうだっていい。
私という取るに足りない存在が、貴方の安眠に小さな一役を買っているのなら。
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