初恋
「失礼します。お薬をお持ちしました」
「ありがとう。そこに置いておいてくれ」
「はい」
団長がここに運ばれてから10日過ぎた。
まだ目覚めてから間もないというのに、布団の上には書類やら本やらが積まれている。
その姿はまさに調査兵団の団長に相応しいのかもしれないが、流石に今回は消耗が激しいようで、街で見かけた横顔より痩せた頬に疲れが浮き出ている。
サイドテーブルにトレーを置いて、朝昼晩と飲む薬が分かりやすいように並べていく。
薬の側に新しい飲み水を注ぐ。
ふと、膝上で本を台にして何かの書類にサインしている手が横目に入った。
「字…お綺麗ですね。左手ですのに」
さらさらと書かれる文字は、女の私よりよほど整っている。
つい思ったことを口走ってしまって、青い目が驚いたように私を見た。
看護師に無駄話を持ちかけられると思わなかったのだろう。
「…練習していた。いつかこうなってもいいようにね」
なんでもないことみたいに言って、淡々とサインを続ける患者を見て、団長はそんなことまで修得しなければいけないのか、大変だなという月並みな感想が浮かんだ。
「ところで私の利き腕が右だとよくわかったね」
まさか会話が続くと思わず今度は私が質問されて驚く番だった。
「…ああ、それは簡単です。兵団の方は立体機動装置の性質上左右対称に鍛えて体幹を安定させているかと思いますが、それでもやっぱり利き腕の方が僅かに太くなるんですよ」
半分も残っていない団長の右腕でも、やはり筋肉量が少し違う。
ただこれからは目に見えて左腕が鍛えられていくはずだ。
「…成る程、恐れ入った」
ほんの少し口端を上げて微笑む団長は、遠くで見ていたよりずっと穏やかな人だ。
壁外調査の度に、非道だと非難されているとは思えない。
「…あの、」
彼に会ったら聞いてみたいことが一つあった。
「辛く、ないですか」
まだ幼い頃、弟と一緒によく調査兵団の帰還を見物に行った。
他の子どもの例に漏れず死んだ顔で帰ってくる彼等がヒーローに見えた。
その隊列の中で綺麗な青目と金髪は目を惹いた。
それからずっと彼の背中を探すようになり、列の後方にあった姿はいつしか中ほどになり、やがて一番前になった。
「…調査兵団に所属している以上死ぬ覚悟は出来ている。寧ろ腕一本で済んだのは僥倖だ」
きっぱり言い切る団長の瞳は、あの日と変わらず澄んでいる。
「そうではなくて、」
少し背が伸びて、大人たちの誹謗中傷に耳を傾け始めた頃に生まれた疑問だ。
「こんなに人類の為に身を捧げているのに、悪魔とか悪党だとか呼ばれて辛くないですか」
いや、疑問と言うにはあまりに幼稚で、あまりに不躾かもしれない。
言うなればそれは、
「ずっと不思議でした。どうしてあんな罵倒の中でも真っ直ぐ前を向いて、背筋を伸ばしていられるのか」
双眼が大きく瞬き、私を射抜く。
いつもいつも背中ばかり眺めていた人に見つめられ、息が詰まった。
「そんな質問をされたのは初めてだ。君は優しいんだな」
「優しくなど…」
途切れた言葉を団長が繋ぐ。
「全ては人類の勝利の為だ。目的の為なら何を言われようとも、私一人の命がどうなろうとも構わない」
その台詞はどこか宙に浮いていた。
本当にそう思っているのだろうか。
あなたの人生が誰に傷つけられてもいいほど軽いものだと。
「その発言は看過出来ません。1人でも多くの命を救わなければならない看護師として」
「…すまない」
素直に謝った団長が可笑しくて、つい顔が綻ぶ。
不敬かもしれないが、可愛らしい人だと思った。
「君、名前は」
「なまえです」
「なまえか、覚えておくよ」
団長の声をこんな近くで聞いて、名前を呼んで貰える日がくるなんて。
子どもの私に教えてあげることが出来たなら、きっと飛び上がって喜んだはずだ。
「団長、私、小さい頃から弟と一緒に、貴方が街へ帰って来るのを見てました」
水を注いだグラスを団長に渡す。
それに口を付ける時ですら、背に一本の鋼が通っている。
「そうだったのか。ずいぶん老けただろう」
おどける口調に、こんな冗談も言う人だとは細やかな発見だ。
「いいえ…あの時から団長は何も変わっていません」
絵本から飛び出た金髪碧眼の勇敢な王子様。
背中に憧れていたあの日の淡い恋心は、栞にして挟んでおこう。
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