book | ナノ
 声を抱く

幼い頃、枕元で聞いたあの声を、もう一度聞きたいと思うのは私だけだろうか。

「エルヴィン、何か喋って」

ベッド脇の机で熱心に書物をしている男にせがめば、

「何か、とは?」

一瞥されて直ぐにその目は書類の世話をする。

「何でもいいの。子どもの頃の話とか」

「…もう忘れたよ」

相変わらずペンを走らせる手を止めないことに淋しくなって、布団に潜る。

部屋にはカリカリと筆記の音だけが微かに響く。

この音も悪くはない。
でも、今聞きたいのはこれじゃない。

何度目を閉じても眠れない。
眠りたくない。
あの声を聞くまでは。

「ねえ、エルヴィン。その仕事いつまでやるの?」

「…君はさっきから駄々っ子みたいなことを言ってどうしたんだ」

小さな溜息にこれ以上何も言ってはいけない気になってしまった。

「…何でもない」

人はいつからか子どものままでは許されなくなる。

泣いたり笑ったりすることに理由をつけ始める。

疲れた時に体を癒すものは幾らでもあるが、心を慰めるものはどんどん減っていく。

もう嫌だこんな世界。
そんな幼い気分から、私を救ってくれるものが一つだけある。

布団を頭まで被って、独りぼっちを擬似体験していると、ふいに書く音が止まった。

布団の中に光が差す。

「拗ねたのか」

隣に潜り込んできた体温に寄り添った。
この人は私を幾つだと思っているのかしら。

「お生憎様。そんなに幼稚じゃないのよ」

「それは失礼した」

伸ばされた腕に頭を預ける。

「子どもの頃の話がどうしたって?」

お預けされていた話を持ち出される。
いなしているように見えても、私の話をちゃんと聞いてくれているのだ。

「子どもの頃、夜眠る前にお父さんかお母さんに本を読んでもらわなかった?」

ランプ一つの灯りに照らされた、あの優しい口元が忘れられない。

「さあ、どうだったか…」

本当に覚えていないのか、はぐらかしているのか、私には量りかねる。

「それがどんな内容かは、あんまり記憶にないの。でも、声だけずっと、耳に残ってる」

もう聞けなくなった子守唄みたいな声。

むかしむかし、ある国におひめさまがいました。

おひめさまはおうじさまとけっこんして、ふたりで仲よく暮らしました。

必ずハッピーエンドで終わる話を読んだ記憶はもう思い出せないほど遠い。

いつもは知らぬふりをしている子どもの私が置いてかないでと泣きじゃくる。

ひとりはいやよ。そばにいて。
嘘でもいいから、ずっと一緒にいると言って。

二人でいるのに、果てしない孤独を感じる今日みたいな夜を、この人はきっと知らない。

「お願い、何か喋って」

私を救い出してみせてよ。

「そうだな…」

再度ごねると、エルヴィンは寝転んだまま、サイドテーブルに手を伸ばした。

紙束から一枚引き抜くと、目の前に翳す。

「予算申請書。ダリス・ザックレー総統殿。申請項目。設備費、整備費、食糧費、遠征費馬代含む、その他予備費…」

滔滔と読み上げる声に目を閉じた。

よく響き、それでいて落ち着いた低音が、水のように体内に染み込んでゆく。

エルヴィンの声は、絵本に出てくる魔法だ。
つまらない書類でさえ、声という柔らかな布団に変えてしまう。

一晩中でも聞いていたい音に耳を傾けていたら、ふとそれが途切れた。

薄っすら目を開けると、瞳だけこちらに向けて、きょとんとした表情が私を見ていた。

この人はごく稀に幼い顔をする。

「からかったつもりだったんだが」

一度スイッチの入った体は、急速に眠りへと運ばれて行く。

ろくに返事も出来ず、懇願に似た声音が口から漏れた。

「…やだ、やめないで……」

「…仕方ないな、その代わり明日は私が君の声を聞く番だ」

その意味を理解して、了承として胸元に擦り寄る。

「おやすみなまえ」

つむじに落ちた一つの口付けの後、直ぐに読み聞かせは再開され、瞼の重みが増す。

うとうとする意識の中で、輪郭がぼやけ、声だけが鮮明になる。

だんだんと声と溶け合って行く。

あの頃に憧れて、何もかも取り戻せないようで、辛くなって。

それでも大切なものはまだなくしてないと、いつか絵本の最後のページが語ってくれる。

この人の声を聞いていると、そう信じて生きていける。







. prev|next
back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -