book | ナノ
 僕のカナリア

そろそろあれが来る頃か。
壁時計に目をやったところで丁度扉をノックする音。

「団長〜聞いてくださいよ」

扉の隙間から見慣れた姿がひょっこり顔を出す。
許可を出さぬ間に入室するのはいつものことだ。

「今日ね、ハンジがまた変な実験やり出したんですよ、しかも私に検体になれとかー…」

執務机前の応接ソファの私に一番近い場所が彼女の定位置で、そこを陣取ると日誌にすら書けない小さな本日の出来事を女性らしい鈴の音でだらだらと喋り始める。

仕事をさぼっているのかといえばそうではなく、ちゃっかり自分のこなすべき書類は持ってきているのだ。
取り留めない話題を口にする間も右手は紙にサインしているのだから憎めない。
どこにいても出来る業務ならまあ団長室とはいえ来客時以外は大した問題ではないかと黙認している。

こちらもまた話半分に相槌を打ちながら、手を休めることはない。

彼女の周りの出来事は、大抵天気の話や兵舎裏に野良猫がいたとか、ハンジの業務外の実験とか、そのせいでリヴァイの機嫌が最悪とかが殆どだ。

「あ、そう言えば今日立体機動の訓練でちょっと失敗してしまいまして」

「君が?珍しいな、以前見学した時にはなかなか上手かったと思うが」

「あはは、褒めても何も出ませんよ。スピード重視するとアンカーの食い込みが甘くなっちゃうんですよね」

「ああ、それは…」

最近稀に真面目な話を持ってくる事もあるのは、先日班長に抜擢し、責任感が芽生えてきた喜ばしい証拠だろう。

部屋にあるのはなまえが結末も無い細やかな話題を話す声と、紙を捲る音と、筆記の音だけだ。

そして暫くして手持ちの仕事が済めば二人分の紅茶を淹れ、飲み終わるとさっさと去って行く。

気紛れに来て気紛れに帰る。
まるで猫だ。
野良猫一匹が部屋に入り込んだとして気にも留めないのと同じで、少しの物寂しさを残しまた静かな執務室が戻ってくる。

「じゃあ団長、私はこれで。ありがとうございました」

今日もまるで友人のような気さくな笑顔を向けいそいそと退出する彼女を見送り、再び山積みの書類に目を通す。

「エルヴィンいるか」

彼女と消え入れ違いに顔を出したのはなまえの直属の上司でもあるミケだ。
彼には報告書の提出を頼んでいた。
持ち前の鼻の良さで言わずとも直前の状況を察したらしい。

「邪魔したな。あいつにはよく言っておく」

「いや、別に構わんよ。特に支障もないし好きにさせておけばいい」

「…お前にしては少し甘いな」

「はは、そうかな。単調な職務には丁度いい話し相手でね」

それは己にしては珍しく素直な言葉だったのだが、ミケは意味深に眉を顰め鼻を鳴らした。

部屋には彼女が淹れていった紅茶の匂いがまだ微かに香っていた。







束の間の日常から数日、以前から綿密に計画していた大規模な壁外調査が決行された。

多くの犠牲に見合った成果は得られず、ただ疲弊し切った体を叱咤し椅子に縛り付ける。
調査兵団の主な任務は壁外調査に他ならないが、それに付随する貴族や議員への報告は次の調査にも大きく関わるためおざなりにはできない。

その報告書の元になる各班からの資料は既に揃っている。
衛生班から上がってきた重傷者リストをめくっているとある名が目についた。

なまえ。

脳裏に人懐こい笑みが浮かぶ。
小鳥宜しくよく喋るまだあどけなさの残る声が耳元を掠めた気がした。

殺風景な名前の羅列の中、彼女のスペルだけやけにはっきりと網膜に焼きつく。
眺めていると何故か落ち着かず、脚は勝手に病棟へ向いた。
一時的とは言え職務を放り出し、私情に走るなどらしくないことは分かっている。
書類に書かれていた部屋番号の前には待ち構えたように旧友が佇む。

「あの子の容態は?」

ミケは静かに首を振った。
あの子、で誰のことか察するのは流石知己と言うべきか、己の余裕が無さ過ぎたのか。

「命に別条はない…が、目を覚まさない」

「…そうか」

聞けば部下を迫り来る巨人から庇い、落馬して意識が混濁しているという。
彼女の班を危険な索敵班に回したのは失敗だったかと心の中で舌打ちをした。

「…俺は戻るぞ」

不器用な彼なりの気遣いの台詞だった。
別に彼女を特段贔屓しているわけでない。
ただ、此方にお構いなしに懐きすり寄って来るせいで愛着が湧いたのかも知れない。
それは冷え切った蝋燭に灯りがともるように、確かにささくれを溶かしたと、今更自覚するのだ。
自分が思うより私はずっと愚かだったらしい。

簡素な寝具に横たえる体は少し痩せて見える。
ほんのり朱色を帯びた頬は青白く、鈴の音の声を出す唇は人形めいて硬く閉ざされていた。

知らぬ間に握り締めた拳が汗ばむ。
逸る心臓に子供の如く言い聞かせた。

彼女の隣に眠る何名もの重傷者が目に入らないのは、今迄何百人と殺し、感覚が麻痺した証拠だ。その筈だと。








彼女の訪れない団長室は、それが日常である筈なのに嫌にしんとしていた。

人間の順応は早いもので、もう5日も経てば扉の向こうの靴音になまえを探すことも無くなった。

それでいい。
壁外調査の度、同期が死に、部下を見捨てたように、これからもそうして生きていくのだろう。
彼女がよく来ていた時刻壁時計を見てしまう癖もやがて抜ける。

今日もふいに文字盤に目をやり直ぐに逸らした。
愚かさに自嘲しても、咎める声も最早途絶えたのだから。

静寂を打ち破ったのは控え目なノックだった。
入室許可を出しても返事はなく、やがてそろりと扉が開く。

「お久しぶりです」

顔を覗かせた人物に息を息を飲む。

「…君、怪我は」

思わず零した間の抜けた声が自分の物だと理解するのに数秒要した。
人好きのする笑みを乗せた肌は、健康的な色を取り戻している。
どうしようもなく安心感が溢れてきた。

「なんとか。今朝目が覚めたんです。いやーこんな寝込んだの久しぶりでびっくりしましたよ」

けらけらと無邪気な鈴の声が部屋に響く度、穏やかに世界が色付いてゆく。

「夢の中に団長が出て来て、会いに行かなきゃと思いまして!聞きたいですか?夢で貴方が何したか」

人の気も知らず、能天気にソファに腰掛けて遊ばせる脚にはまだ真白いガーゼが張り付いている。
好き放題喋る囀りが耳に心地よい。
久しぶりに空気を深く吸った。

「だ、団長?」

隣に座れば薄紅の頬が更に赤く染まる。
戸惑う表情も愛しかった。

「…聞くよ」

過去も振り返らない、明日の事も考えない、他愛ない話を。

「聞くから、話してくれ。何でもいい。君の声が聞きたいんだ」








. prev|next
back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -