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 キスマークなど数日もすれば消えてしまう。見れば、あの夜のことを思い出して切なくなった。けれど消えてしまうと、また切なさを覚えた。消えた痕を探すように肌を確認してしまうのが、このところの鏡の前での雲雀の癖だった。
 シャツのボタンを一番上まできっちりと留め、雲雀は吐息を零す。あの夜を偲ぶ縁など、ないほうがいいのだ。知らぬ者同士が一晩限りの相手を求めただけで、雲雀があの部屋を出たときに終わっている関係だ。また吐息をつくと、雲雀はネクタイを結んで頭をこれから向かう現実の場所へと切り替えた。
 ここ暫くボンゴレからの依頼で動いていたが、もうすぐ片が付きそうだった。そうしたら、久しぶりに日本に戻ってのんびりしようと考えていた。
 キャバッローネも交えた会合を終えると、雲雀はビルの中に作られた庭へと向かった。
「ヒバリ」
 雲雀が足を踏み入れると、黄色い小鳥が飛んできた。会議室へは入れられなかったため、ここで遊ばせていた。小鳥は雲雀の周りを回って、肩に降りた。雲雀は小鳥の頭を撫で、ぼんやりと手入れの行き届いた庭を眺める。
 足音が近づいてきて、背後で止まった。大きな手が肩に置かれる。
「帰らねぇの?」
 科白とともに、ディーノは動かない雲雀の正面に回り込んだ。雲雀は小鳥の羽より明るい金髪を見上げる。ゆらりと小さな頭が揺れた。ディーノも首を傾げ、そっと雲雀の額に手を伸べた。
「熱は…ねぇか」
 ディーノが独り言ちるように云うと、雲雀は切れ長の目をぱちぱちと瞬かせ、それから唇を尖らせた。ディーノは苦笑しつつ花車な肩を抱き寄せる。ビルの中の出入り自由の庭園内だったが、雲雀が咎めることはなかった。
「恭弥は、この後は?」
「別に、何も」
 ボンゴレ邸に寄って報告書を渡したあとの予定はない。
「そっか。奇遇だな」
 自分も今日はこれで終いだと云って、ディーノは細い腰に腕を回した。

 ボンゴレ邸で、雲雀は会いたくないと思っていた人物の姿を見つけた。へらへらと笑いながら女性を送り出している。何度も見た光景であるのに、今日に限って心臓が痛む。
「恭弥? やっぱりどっか具合悪い?」
 歩みの鈍った雲雀に、同行しているディーノが心配そうに声をかける。
「悪くないよ」
 雲雀は素っ気なく云ってボスの部屋に向かう。
 重厚な扉が閉まり雲雀の背中が消えると、ディーノは溜め息を落とした。
 時間を潰すためにサロンに入ると、先客があった。シャマルだ。ロビーにいたから、真っ直ぐここに来たのだろう。
「何だ跳ね馬、坊主んとこ行ったんじゃなかったのか」
「いや。恭弥について来ただけだ」
 ディーノはひょいと肩を竦めた。
「暴れん坊主に付き添いかよ」
 呆れたように云ってから、シャマルは眉を顰めた。
「怪我でもしたか、風邪でも引いたか?」
 ふらふらの雲雀をディーノが運び込んで来たことが何度かあった。放っておけば、常人なら重傷の怪我でも治療に来ようとしない雲雀だ。風邪だって、温順しくしていないから拗らせるのだ。
 基本男は診ない主義のシャマルだが、過去の一件が尾を引いているのか、好みの顔立ちだからなのか、雲雀のことだけは自発的に診察していた。それも、女性にするより優しいのではないかというくらい丁寧だった。こんなふうに気にかけるのも雲雀だからであって、ボス相手だってしないだろう。
「いや。うーん。多分、大丈夫」
 けれど本調子ではなさそうな雲雀の様子を脳裡に描き、ディーノは言葉を濁さざるを得なかった。
「頼りねぇ師匠だな」
「それ、恭弥のやつは名乗らせてくれねーもん」
 拗ねたように云って、ディーノは温くなったコーヒーを啜る。
 シャマルはディーノの様子を横目でちらと窺い、嘆息した。雲雀に変調があったわけでないのには安堵したが、いつになく気が鬱ぐ。ディーノが雲雀を教え子以上に想っていることも、雲雀がディーノに甘えた態度を取ることも、今に始まったことではないのに、どうしようもなくシャマルの心中を苛んだ。
 冷めきったコーヒーを喉に流し込み、シャマルはもう一杯熱いコーヒーで口直しをしようと立ち上がる。エスプレッソマシンの前で待っていると、黒スーツの痩身優美な姿が入ってきた。シャマルに気づいて、軽く黒瞳が瞠られた。
「終わったのか?」
 声をかけたのは、ディーノだった。雲雀はそちらを見やって頷いたが、シャマルの方へと向かってきた。
「コーヒー」
 一言だけ呟いて、シャマルの手元に視線を落とす。
「飲む?」
 シャマルが新しいカップを出そうとすると、細い手が伸びてきた。シャマルの手から、淹れたてのコーヒーで満たされたカップがさらわれた。
「おい」
 雲雀はふぅっと息を吹きかけて、こくんと一口口にした。縁を拭ってカップをシャマルに戻す。
「御馳走様」
 囁くような声を残して、痩身が離れる。シャマルはその腕を掴んで引き留めたい衝動を堪える。そんな間柄ではない。コーヒーカップを持ち上げ、雲雀が拭った縁を口に運ぶ。少し温くなってしまっていた。
 連れだって出ていくディーノと雲雀を見送り、シャマルは褐色の水面に吐息を吐き出した。
 あの夜は見知らぬ相手と一夜の情事を楽しんだだけだ。けれどそう思っても、雲雀の残した爪の痕が消えると喪失感を覚えた。いっそ名乗ってしまえば良かったのかも知れない。そうすれば、拒まれればそれで終わりだったし、知ってなお快楽を求めようというのであれば、はっきり遊びと割り切ることも出来ただろう。あの時はただ、一時雲雀をこの手に抱ければと思った。まさか自分がこんな未練がましいとは思わなかった。
 結局また冷えてしまったコーヒーを飲み終えると、シャマルは重い足取りでサロンを後にした。

 シャマルの視線に送られて廊下に出ると、雲雀はそっと吐息を吐いた。動揺は隠せていたはずだ。思い返して、細い眉を寄せる。カップではなくて、シャマルに口づけたかった。いっそそうしてしまえば、余計な考えに煩わされることもなくなるのだろうか。けれど、アルコールの齎した過ちだったとしても、あの夜の夢を壊したくなかった。



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[mokuji]

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