局長に誘われ、真選組へ料理番としてここへ来てから二年。私は一人で隊士全員分の朝昼晩と夜勤隊士分の食事をほぼ毎日作っている。私の他に調理を手伝ってくれる人はいなくて、いるのは配給や皿洗いを手伝ってくれる隊士達だけだ。彼らもまた普段は通常通り真選組隊士として仕事をしている人たちで、当番制で代わる代わる手伝いに来てくれている。ちなみに私が来るまでは、当番で順番に食事を作っていたそうだ。最初の頃こそ一人で大量の食事を用意するのは、注文を受けてから作る店とは異なったしんどさがあったものの、今ではすっかりこの生活に慣れきってしまっている。

夜が明けるよりもずっと早い、まだ深夜と呼ぶ方がふさわしいくらいの時間に起床し、前日に作っておいたおにぎりを食べて出勤。真選組発足当時から世話になっているという卸売り業者から納品された食材を受け取って、すぐに朝食作りが始まる。朝食の時間に合わせて顔を覗かせてくれる配給当番の隊士達と慌ただしく挨拶をすると配給を始め、あらかた配り終えた段階で皿洗いを当番の人たちに任せ、昼食の仕込みにとりかかる。皿洗いが終わった段階で、やっと私達が食事休憩を取れる。とは言っても、その時間も休んでいられる訳ではなくて、食事を取りつつ翌日のメニューを考えたり、伝票などの事務仕事をしているうちにあっという間に終わってしまう。そうして今度は昼食の準備が始まって、と休む間なく一日が過ぎていく。夜勤隊士用の作りおきの食事を作り終わって、翌日の食材の発注が終わった時には、たいてい23時を過ぎている。こうしてやっと一日の仕事が終わるのだ。それでも、この生活に不満などなくて、楽しいとさえ思う。毎日包丁を握られることが、美味しいと言って貰えることが、一番の幸せなのだ。




「お疲れ様です。」

22時を過ぎた頃。不機嫌そうな顔で食堂へやってきたその人を見つけて、厨房の中から挨拶をする。何も言わずにいつもの場所、厨房に一番近いテーブルの真ん中の席にどかっと腰をおろすやいなや、煙草に火を点けているその姿は、もう数えきれない程見ている。

「コーヒーでいいですか?」

作業する手は止めずに問いかければ、ああ、という短い返事。それを聞いて、コーヒーを淹れる準備を始める。夜の食堂には、私と煙草を吸いながらコーヒーを待つ人、副長の二人だけしかいなくて、夜ということも相まってとても静かだ。

「お前、あの後も何度か行ってるんだってな。」

唐突に低い声に話しかけられて、何処にですか、と聞き返す。耳馴染みのある遊郭の名前が出て来て、ああ、と頷いた。姫乃さんか彩香さんにでも聞いたのだろう。というか、それを知っているということは、副長も足を運んでいることか。まぁ、大人の男なのだし、そういう所に通っていたって、何ら不思議ではないのだけれど。

「仮にも女が通う場所じゃねぇだろ。」

淹れたてのコーヒーが乗ったお盆をカウンターに置いてから、厨房を出る。

「いやぁ、あそこの料理があまりに美味しいんで。」

料理に関しての好奇心には逆らえないんすよねぇ。

あはは、と笑いながら、副長の前にコーヒーを運ぶ。副長が懐から取り出したマヨネーズを極力視界に映さないように、視線を外す。見てしまうとどうしても怒鳴りたくなってしまう。

「そういう問題じゃねぇだろ。」

ヘンな女、と呟いた副長が鼻で笑う。アンタには言われたくねぇよ、という言葉は飲み込んで、厨房の中へと戻る。それきり、互いに何を話すこともなく、ズズ、とマヨネーズまみれになっているだろうコーヒーを啜る音と、食器を洗う水音だけが響いていた。




*****





副長にああ言われたからといって、遊郭へ行くのを止めることはなく(金がもたないし、そもそも休みもないので、一ヶ月に一度行ければ良い方、というくらいの頻度だが)。
今日も美味かったなぁ、と幸福な食事の余韻に浸りながら、すっかり夜も更けて、人通りの少なくなった通りをのんびりと歩く。頭の中は、どうやればあの味を再現出来るだろう、次の新メニューはどうしようか、等と料理のことで満たされている。

パタパタと足早に誰かが走る足音が近付いていることに気付いたのと、突如左の脇腹に激痛が走ったのは、ほぼ同時だった。

「ッ、」

勢いよく脇腹から、鋭い何かが引き抜かれる感触に、言葉にならない声が出る。咄嗟に右手でそこに触れて見ると、べったりと手のひらに付いた赤い血に目を見開く。崩れ落ちるようにして地面に両膝をついて、激痛を生む傷口を押さえる。あまりの痛みで、上体を起こしていることさえ苦しい。

「…お前さえいなけば…、お前がいるから姫乃さんが、」

頭上から聞こえる知らない男の声。震えるその声が作る言葉の意味を理解するよりも早く、背中をまた刺される。

「うあっ!、」

引き抜かれる感触と、もう一度走る激痛。気を失いそうな程の、いっそ失ってしまった方が楽に思える程の痛みに耐えられず、その場に倒れ込む。痛みからか、出血のせいか、遠くなりつつある意識の向こうで、誰かの悲鳴が聞こえる。目の前が暗くなる。

ああ、私、死ぬのかな。
死んでいくって、そうか、こんな感じなのか。




*****





視界に映ったのは白い天井だった。ゆっくりと数回瞬きをしてみる。ゆるゆると首を動かしてみる。

「気ィついたか。」

声のした方へと顔を向ければ、誰かに顔を覗き込まれる。

「ふくちょ、う、?」

体を起こそうとした瞬間襲われた激痛に、顔を歪めた。

「いっ、」
「馬鹿。寝てろ。」

副長に肩を押し戻される。痛みが落ち着くのを待って、ここは何処かと尋ねると、病院だと教えてくれた。

「昨夜のことは覚えてるか。」
「昨夜、」

反芻して、朧気な記憶を辿る。休みだからと、遊郭で姫乃さんとお喋りしながら美味い料理を食べて。いい気分で屯所へと帰る道で。

甦る、思い出したくもない激痛と、感触。三度、誰かに刺された。血が流れていく感覚と、鉄の匂い。

「私は、誰に刺されたんですか。」

どうして。誰に。

副長から、私を刺したその人の名前を聞いても分からなかった。ただ、副長が言うには、その人は私に対して、激しい嫉妬を抱いていたらしい。最近知り合ったばかりの私が、姫乃さんととても近い距離で親しくしているのが気に入らなかったという。親しく、といっても、見送りの時に、軽くハグをして頬にキスをしてもらう程度なのだったけれど、それがその人のにとってはどうしようもなく羨ましくて妬ましたかったそうだ。そして、嫉妬のあまり、昨夜のような行動に出てしまったと。
現場を目撃していた人たちの証言と、私の背中に刺したままだったナイフについていた指紋から、幸いにもあっさりと犯人は捕まったらしい。副長自らガッツリ、シメて頂いたようだ。

しかし、蓋をあけてみれば何とも言えない話に、複雑な気持ちになる。お気に入りの遊女の客への嫉妬に狂った挙げ句の強行、とはいっても、実際のその嫉妬の相手は女で、本人の私にはそんな激情を向けられる謂われも、自覚もない。
何を言えばいいのか、言葉を探していると、先に口を開いたのは副長だった。

「お前、二度と遊郭には行くなよ。」
「え?」
「え、って何だ。」
「嫌ですよ。あそこの料理すごく美味いのに。」

味覚音痴の副長にはわかんないでしょうけど、と付け加えると、ああ?、と副長に睨まれる。

「てめぇ、自分がどんな目に合ったのか分かってねぇのか。」
「分かってますよ。でも美味しい料理を食べられる店に行けなくなるのは嫌っす。つーか、私だってたまには綺麗なお姉さんと美味しい物が食べたいんですー。」
「はあ?お前、仮にも女だろうが。何言ってやがる。」
「女だって綺麗なお姉さんは好きなんですー。男だけだと思ったら大間違いですよ。」

ものすごく呆れた顔で、副長が私を見下ろす。

「つくづくヘンな奴だな。」
「副長の味覚程じゃないですよ。」

再び眉を吊り上げた副長から、ふい、と目を逸らした。

副長は心配してくれているのだろう。多分。もしかしたら面倒事を増やされたくないだけなのかもしれないけど。どちらにしろ、副長は私が同じ目に合わないで済むように考えての言葉なのは確かで。
いくらガキだと言われても、それが分からない程に子供でもない。

「分かりました。」
「あん?」
「行くの止めます。」

その代わり、と続けて、副長を見上げ、にんまりと笑みを浮かべた。

「副長が一番美味しいと思うご飯屋さん紹介して下さい。」
「はあ?俺の命令に対して、交換条件突き付けるたぁ、いい度胸じゃねえか。」
「でも元はといえば、あの日副長が面白がって私を遊郭へ連れて行ったりしなければ、私はあのお店にはまらなかったかもしれないんですよ?」

そもそも私が風俗街に足を踏み入れなければ、という仮定は棚上げして、わざと副長にも非があるかのような言い方をしてみせる。誰かに殺されかけることはなかった、とは言わなかっただけまだマシだろう。

その辺の含みを察してくれたのか、副長がはあ、と盛大に息を吐き出す。

「分ぁったよ。」
「交渉成立っすね。」

ふふふ、と笑いながら見上げた副長の顔は相変わらず不機嫌そうだったけど、私が思う以上に優しい人なんだろうか。