母親は、私が物心つく頃にはいなかった。他に男を作って出ていったらしい。父親は、私が10歳の誕生日を迎える数日前、病気で亡くなった。それ以降、たった一人で幼い私を育ててくれた10歳上の兄貴もある日突然他界してしまった。その当時の私は15のガキで、父と兄が大切に守ってきた店を守ることはおろか、住む場所さえ失って。頼れる親戚も、大人の知り合いもいなくて絶望に打ちひしがれていた私を、兄貴の友達だった近藤局長(当時は真選組の局長だなんて知りもしなかったけれど)が、私を真選組へと迎え入れてくれなければ、今の私はきっといなかっただろう。




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月に一度か二度くらいしか貰えない休日の夕飯は、基本的に外で食べるようにしている。自炊が面倒、というのがない訳ではないけれど、たまの休日くらいはやはり外の料理が食べたくなるのだ。自分以外の誰かが作ってくれた美味しい料理を食べたいし、それによって刺激が欲しい。受けた刺激を以て、自分の料理にフィードバックしたい。そのために、外の世界を見に行く。
今日も例に漏れず外食した帰り道、特に何も考えずただ近いから、という理由だけで、風俗街を通り抜けようしたのが、多分間違っていたのだろう。足を踏み入れて僅か数分後には、私の頭は後悔で一杯だった。

「ねぇ、お兄さん、寄っていきなよ。」
「少しくらい、いいでしょう?」

よくねぇよ、とは言えず、乾いた笑みを貼り付けて、何とかしてこの場を逃げられないものかと必死に脳内をフル回転させるが、全くもってどうすればいいのか分からない。そもそも私は男ではないし、未成年だ。そう主張しても、またまたぁ、とあしらわれて取り合って貰えないとは、一体どういうことなんだろう。いや、男に間違われるのはもう何年も前からのことだし、慣れてはいるのだけれど。それに胡座をかいて、自ら女らしく振る舞うことを止め、好んで男物の着物を着流している私が悪いのだろうけれど、やっぱりこの状況は受け入れられない訳で。色っぽいお姉様方に両腕を捕まれたまま、寄っていきなよ、いや、ちょっと、というやり取りを何回繰り返しているのだろう。

「オイ、こんなとこで何やってんだ、お前。」

もういっそ、お姉様方には悪いが、このまま強引に振りほどいてダッシュで逃げてしまおうか、などと考え始めていた矢先に、背後から聞こえた低い声。三人揃って声のした方を振り返る。

「…副長?」

煙草をくわえて、無表情で私を見やるその人は、真選組副長、土方さんだ。今日は休日のようで、私と同様着流し姿だ。

「あらぁ、土方さんじゃないの。この子のお知り合い?」
「まあな。」
「それは良かった。土方さんも寄っていきません?それならこの子も安心でしょうし。」

副長は、私が一応女だということを知っている筈だ。助かった、と内心で息を吐く。

「そうだな。」
「え?」

副長の一言に、お姉様方が嬉しそうな声を上げた。ささ、行きましょ、とお姉様に腕を引かれるまま、店の中へと連れ込まれてしまう。

「ちょ、ちょっと、副長、どういうことっすか、私が、」
「うるせえ。社会見学だ。」
「はああ!?」




お座敷へと通されると、正座で座ったまま、落ち着きなく、キョロキョロと辺りを見回す。副長は慣れているのか、寄り添うように副長の左隣に座っているお姉様、彩香さんに表情一つ変えないままお酌をしてもらっている。

「さ、名字くんもどうぞ。」

私の右隣に座っているお姉様、姫乃さんにお猪口を手渡されるが、それを慌てて断る。酒は飲めないんです、と言えば、そう、と少し驚いた顔をした姫乃さんが、代わりにお茶を用意してくれた。それをちびちびとすすりながら、未だ落ち着きを取り戻せないまま、話しかけてくれる姫乃さんの言葉に、曖昧に返事をする。

「そう言えば、土方さん。名字くんたら、面白いんですよ。」

女です、といって逃げようとしていた数分前のやり取りを、彩香さんが副長に話して聞かせると、それを聞いていた姫乃さんが、可愛いですよねぇ、とクスクス笑う。いよいよ本当に信じられてないのだ、と肩を落とした私を、ようやくフォローしてくれる気になったのか、副長が、女らしいぞ、と呟く。だけど、その副長の口許は楽しげに弧を描いていて、私を助けるつもりなどないのだと気付く。

「俺も確認した訳じゃねえから、ホントかどうか知らねえがな。」

副長の言葉に、何故か彩香さんと姫乃さんが、口を揃えて、あらあ、と溢す。その声は酷く楽しげで、私が危機感を覚えるよりも早く、姫乃さんに、ガシッと右腕を拘束される。

「え、」
「名字くん、ちょっと別室に行きましょう?」
「姫乃だけなんて狡いわ。」
「え、え?」

二人に両腕を捕まれて、強制的にズルズルと座敷から連れ出されてしまう。引きずられながら、助けを求めて副長を見ても、ちらりと私を一瞥しただけで、酒を飲んでいる。

「いや、あの、ちょ、待っ、」

なすすべなく、目の前でぴしゃりと襖戸が閉められた。そのまま空いていたらしい別室に押し込まれるや否や、お姉様方が詰め寄ってくる。逃げようと後退りするも、直ぐに壁にぶつかってしまって、逃げ場はなくなってしまった。

「いいじゃない、女同士なんだから。」
「そうよ、名字くん。恥ずかしがることなんて、何もないわ。」

にっこりと笑う二人は、同じ女でも見惚れる程妖艶なのに、今は寒気しかしないのは、きっとこの状況のせいだ。するりと伸びてきた姫乃さんの両手が、そっと私の黒の着物の衿に触れる。そのまま衿を広げられてしまう。

「ぅわあああああっ!?」

突然のことに動揺する私などお構い無しに、ぺたぺたとお姉様方の手が、はだけた私の胸に触れる。

「あら、ホントに女の子だったのね。」
「肌綺麗ねぇ、すべすべ。」
「腕も細くて無駄なお肉なんてないじゃない。うらやましいわぁ。」

無遠慮に体中を撫でられる手に、あう、とか、うう、とか情けない声が漏れる。その間にも帯までもほどかれていて、もう訳が分からない。

「ぅひゃあああッ!?」
「姫乃、脚見てよ、脚。」
「あらあ、綺麗な御御脚だこと。隠してるのが勿体ないくらいね。」

するすると脚を撫でられて、いよいよ居たたまれなくなってくる。こんな風に誰かに自分の体を触られたことなんてないし、触れられる度に漏れる声だって聞いたことない。体を撫でまわされることも、自分ではないような声が漏れることも恥ずかしくてたまらない。

「あの、もう、勘弁してくれませんか、」

自分の目元を右腕で覆いながら、今にも消え入りそうな声で訴える。そうしてやっと姫乃さんと彩香さんの手が離れていく。

「ごめんなさいね。あまりにも反応が可愛くて、綺麗な体だったから、ちょっと楽しくなりすぎちゃったわ。」
「悪気はないのよ。」

慣れた手付きで、私の着流しを直してくれる手を甘んじて受け入れながら、やっと解放されたことに酷く安堵した。それと同時に、一気に疲労が押し寄せる。うわ言のように、大人怖い大人怖い、と呟き続ける私の背中を姫乃さんがそっと押してくれた。その手に導かれるまま、副長が待っている座敷へと三人で戻っていくと、へなへなと数分前まで座っていた座布団の上へと座り込んだ。

「土方さん、彼女、本当に女の子でしたよ。」
「へぇ、そうか。」
「スレンダーでとってもスタイルが良くて。」

ねぇ、などと副長と談笑しているお姉様方の声を聞いている間も、立ち直れないまま、大人怖いを繰り返す。そんな私を見かねたのか、姫乃さんがとんとん、と私の肩を叩いてから、私の右手に箸を握らせる。

「名字くん落ち着いて。もう何もしないから。ほら、美味しい料理でも食べて。」

促されて、のろのろとお膳に乗せられた料理に箸を伸ばす。小鉢に盛られた和え物を、緩慢とした動作で口に運ぶ。

「うまい。」

ようやく我に返って、改めてまじまじとお膳の上の料理を見つめる。料亭を思わせる上品で美しい盛り付け。少し濃いめの味付けは、酒に合うように計算してのことだろう。
お腹一杯の筈なのに、夢中になって食べ進めてしまう。

「そう言えば、お二人は一体どういうご関係かお聞きしても?」
「あ、えっと、」

関係って何だろう、聞かれて戸惑う。そもそも関係なんて呼べるものだったろうか。

「うちの料理番だ。」

私が口ごもっている間に副長がさらりと答えて、ああそれで良かったのかと一人納得した。えっ、と驚いたらしい肥は姫乃さん達のものだ。姫乃さんが、まだ若いのに凄いわねぇ、と感嘆している。全然凄くないっすよ、と小さく苦笑いを浮かべた。

「凄いとか、そういうんじゃなくて、」

それしかないんです。

俯いて、ぽつりと呟く。箸を握る自分の右手をぼんやりと眺める。
ただ包丁を握るしか出来ない右手。それ以外は何も出来ない。

私は料理以外、何も持っていない。

「ここの料理の味はどうかしら?」
「うまいです。ものすごく。」

顔を上げて美味しいです、と言えば、良かった、と微笑んだ姫乃さんと目が合った。その笑顔がとても優しくて、綺麗で。

何だか泣きたくなってしまったのは、どうしてだろう。