目の前に広げた問題集とその解説を交互に見比べて、ううん、と唸る。ローテーブルの九十度隣に座っている孝支をちらりと見ると、唸る私などに気付く様子もなく黙々と問題を解き続けている。

部活で忙しい筈なのに、私よりずっと頭がいいなんて羨ましい。孝支程出来のいい頭を持ち合わせていない私は、幼なじみという立場に甘えてこうして彼の部屋を訪れては勉強を教えてもらっている。

だけど、それもいつまで許されるのだろう。少なくとも受験が終わってしまえば、二人とも大学生になってしまえばきっとこんな風に二人で勉強をするなんてことはなくなってしまうのかもしれない。そうなれば私達はどうなるのだろう。ただの幼なじみになるのだろうか。そうして少しずつ顔も合わさなくなって、距離が離れて、いつかばらばらになってしまうのだろうか。それは、そんな未来は、

「嫌だなあ。」
「どうした?」

気が付かないうちに声に出ていたようで、顔を上げた孝支が不思議そうに私を見つめる。

「なっ、何でもない!何でもないよ!」

慌てて笑顔を貼り付けて首を左右に振る。上手く笑えていたかどうかは正直自信がない。誤魔化すようにして、目の前に広げていた解説を指さした。

「あのっ、これっ、この問題よく分かんなくて。何でこうなるのかな?」

どれ?、と孝支の顔が近付いて、私の手元を覗きこむ。これなんだけど、とドキドキする心臓に気付かない振りをして平静を装う。
きっと孝支はそんな風に顔を近付けられる度に、私がドキドキしていることなんて知らないのだろう。ずっと恋心を抱いていて、でも好きと伝える勇気が持てなくて、幼なじみという関係に甘んじていることなんて、孝支は多分知らない。知らなくていいと思う反面で、やっぱり気付いて欲しい気持ちもあって。その矛盾に何度辟易したことだろう。今年一年に限定して数えてみたって両手じゃ到底足りない。

「これはさ、」

説明しかけた孝支を遮るようにして、階下から孝支と私を呼ぶおばさんの声が響く。年越しそば食べるから降りてらっしゃい、との声に孝支と顔を見合わせる。

「とりあえず食いに行こうか。」

食ったら教えるよ、と笑って立ち上がった孝支にならって私も立ち上がる。孝支の後についてリビングへと向かうとテーブルに用意されているお蕎麦。おばさんに促されるまま椅子に座って、いただきます、と手を合わせる。

「今年ももう終わるわねえ。」

しみじみと呟いたおばさんに、そうですねと笑いかけてお蕎麦をすする。

今年が終わる。
結局何も伝えられないまま、何も変えられないまま今年が終わってしまう。

「年越しそばっていうのはね、今年一年の嫌なこととか苦労や厄を切り捨ててしまいましょう、って意味があるんだって。」

おばさんがふわりと笑う。その笑顔は孝支によく似ていると思う。その孝支は興味がないのか、ふうん、と声を漏らしただけで、ずるずると隣で蕎麦を食べている。

食べかけの蕎麦を見つめてみる。少し箸の先に力を入れたただけでぷつりと切れるそれには、そんな意味があったのだと初めて知った。
嫌なことを切り捨てる。嫌な自分も、嫌いな自分も切り捨てることは出来るのだろうか。傷付くことが怖くて、壊れてしまうことが怖くて、現状に甘んじて告白も出来ない弱い自分。そんな自分を切り捨てられたら。

「名前。食わないの?」

孝支の声にはっと顔を擧げる。孝支は既に食べ終わったのか、テーブルに片肘をついて私を見ている。

「食べる!食べるよ。」

慌てて蕎麦をすする。その間も隣からひしひしと感じる視線が居心地悪くて、行儀が悪いと思いつつも、蕎麦をすすったまま孝支をちらりと見る。その顔が思いの外優しく微笑んでいて、思わずむせた。

「ぐふっ、げほ、ごほっ、」
「あーもう、何やってんだよ。ほら、大丈夫か?」

差し出されたお茶を受け取って、咳の合間にそれを流し込む。背中をさすってくれる孝支の手に心臓がばくばくと早鐘を打つ。顔がほてる。孝支の手が触れた箇所が熱い。

どうしてそんな優しい顔してるの。何でそんなに優しくするの。
どうしてそんな簡単に触れるの。

「だ、って、孝支が、見てた、から、」
「うん。蕎麦を一生懸命食ってる名前が可愛いかったから。」
「な、に、言って、」

やめて。やめてよ。そんなこと言われたら期待するじゃない。

「ほら、早く食えー?年が明ける前に食わないと縁起が悪いらしいぞー。」
「え、そうなの?」
「そう。だからそれ食って初詣行こう。」
「勉強は?」

食べたら教えてくれるってさっき言ったじゃない。

ずるずると残りの蕎麦を食べ始めた私の隣で、孝支がにやりと笑う。

「それはもう明日の朝でいいべ。俺は今年も名前と一緒に年越しして、初詣に行きたいの。」

何それ。何そのセリフ。今まで一度だってそんなセリフ言ったことなかったじゃない。どうして今年に限ってそんなこと言うの。

「…俺だって切り捨てたい嫌な自分がいるんだよ。」
「え?」
「何でもない。」

その言葉の意味を知るまで、今年が終わるまで、あと十分。





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(さあ、勇気を出して)