帰る時には雨が降り出していた。家を出る時には晴れていたし、まさか降るとは思っていなかったから、傘も持ち合わせていない。仕方なく濡れて帰ろうとした時に声をかけてくれたのは、彼女の名前だった。

マネージャーが着替えに使っている更衣室に置き傘があった筈だから、と手を引かれるままに通された更衣室。今日は私が最後だから誰もいない、と言われても何となくその空間に足を踏み入れるのは憚られて、結局ドアの側で壁にもたれて彼女を待つことにした。何処にしまったかな、と呟きながらごそごそと傘を探す彼女をちらりと横目で見てから、ジャージのポケットからケータイを取り出してそれを眺める。
それでも時折ちらちらと視界の端に映る、制服のミニスカートから覗く綺麗な素足に、邪な感情が首をもたげる。二人きりという状況が更にその感情を掻き立てるけれど、ケータイに意識を無理矢理移すことでそれを咬み殺す。

「ねえ、スガさん。」

彼女の声に、見ていたケータイから視線を上げた。見つかった?、そう尋ねようとして息を飲んだ。自分が思っていた以上に近い距離に彼女がいたことに驚いた。いつの間にか俺の正面に立っていた彼女の腕が伸びる。壁へと手をついて、逃げ場を奪うように名前が立ちはだかる。彼女の左手には折り畳み傘が握られていて、目的の物は見つかったのだと気付く。

「どうした?名前。」
「私はそんなに魅力が無いですか。」
「え?」

俯いているせいで彼女の表情は見えない。努めて優しい声で、どうしたの、ともう一度聞く。ゆるゆると彼女が顔を上げた。

「どうして何もしてくれないんですか。どうして触れてくれないんですか。」

名前の瞳が揺れる。今にも泣きそうな顔で俺を見上げている。じわじわと彼女の両目に滲む涙。堪えきれなくなったのか、ぽろりと滴がこぼれ落ちて彼女の白い頬を伝い落ちる。

思わず自分の右手で顔を覆った。大きく息を吐き出す。

ああ、もう。
どうしてそういう事を言うかな。彼女が大切で、好きで愛しくて。だからこそずっと触れられなかったのに。ずっと堪えてきたのに、どうしてそんなことを言うかな。人が大切に慎重に作り上げてきた石橋を叩き割るような真似を、どうして目の前の彼女はしてくれるのだろう。そんな所も含めて名前が可愛くて仕方ない俺は多分、重症だ。

「わかった。」

顔を覆っていた手を下ろす。その手で細い彼女の腰をぐい、と引き寄せた。左手で彼女の頤を持ち上げて、その唇に噛み付くように触れる。

「ッ、」

怯えたように小さく漏れた彼女の声。それさえも今の俺には煽る材料でしかない。味わうように、吐息ごと奪うように何度も彼女の唇に自分のそれを重ねる。



触れてあげる。
何度だって、何処だって、この唇で、この手で君の全てに触れてあげるよ。

もう、遠慮なんてしてあげない。
だから覚悟して?





崩れた均衡
(最初に壊したのはそっちだろ?)