ではどうぞごゆっくり。丁寧な仕草でお辞儀をした仲居さんが部屋を出ていくなり、彼女ははしゃぎだした。…いや、部屋に案内された時から既に楽しそうにはしゃいではいたけれど、仲居さんがいる手前我慢していた、という方が正しいかもしれない。

部屋中の扉という扉を開けて回る彼女の後ろをついて歩きながら、来て良かったと改めて思う。二人での初めての旅行だし、奮発して良かった。この日のためにバイトを頑張った甲斐があるというものだ。

「わあ!お部屋に露天風呂がある!」

嬉しそうな顔で名前が俺を振り向く。すごいね、孝支君、と笑う名前が可愛くて後ろから彼女を抱きすくめる。

「一緒に入る?」
「えッ!?え、あ、いや、えと、それは、その、あの、」

冗談めかして言った筈が、本気に捉えたらしい名前が耳まで真っ赤になって、しどろもどろになって狼狽える。俺を見上げていた視線は、行き場を求めてうろうろとさ迷う。

大学で知り合って付き合い始めた名前とは未だプラトニックな関係だ。不満がある訳ではないし大切にしたいと思う反面、好きだからこそ触れたいという欲求は男だからどうしたって付き纏う訳で。この旅行で一歩進めたらいい、という気持ちを彼女は気付いているのだろうか。

「冗談だよ。」

あわあわとする名前をもう少し見ていたいのを堪えて、彼女の頭を撫でてから体を離す。

「夕飯までまだ時間あるし、先風呂入っておいでよ。」

にっこり微笑んで踵を返す。部屋の中へと戻ると、その後ろを名前が歩く気配がする。ごめんね、と小さく呟いた彼女の言葉にぴたりと足を止めて振り向く。

「何で謝るの?」
「その、折角部屋付きのお風呂なのに、私が、」

俯いて言葉を詰まらせる名前の額をぱちん、と弾く。額を押さえながら顔を上げた彼女に笑顔を見せる。彼女がこれ以上自分を責めなくてもいいように。凹まなくてもいいように。

「バカだなあ。俺は名前と一緒にいられたらそれでいいんだよ。風呂がどう、なんてどうでもいいの。」

極めて優しい声を心がけて、一言一言、彼女を諭すように話す。

だから、どうか泣かないで。名前が不安になることなんて、何一つとして無いんだから。

「一緒に風呂はまたいつかにとっておくよ。」

悪戯な笑みを浮べて名前を抱き寄せる。宥めるように肩をぽんぽんと数回軽く叩く。うん、と彼女が頷いたのを確認してから、腕を解いた。

お風呂入ってくるね、と照れたように笑った名前を笑顔で見送る。しばらくして聞こえ始めた水音に、理性との戦いが早くも始まったのは、ここだけの話だ。





約束通り別々に風呂に入って、豪勢な夕食を食べて。綺麗に並べて敷かれた布団にそれぞれ潜り込む。電気を消した暗闇に少しずつ目が慣れてくる。長い移動で疲れている筈なのに、目が冴えて眠れないのは、彼女が隣にいるからだろう。名前は、もう寝てしまっただろうか。

「…まだ起きてる?」

控えめに声を発したのは、彼女の方だった。起きてるよ、と短く返せば、ごそごそと彼女が身じろぐ気配がする。

「そっち、行ってもいい?」

彼女と向き合うように体の体勢を変えて、布団を少し捲ってみせる。

「おいで。」

お邪魔します、と遠慮がちに近寄ってきた名前を引き寄せて抱きしめる。薄い浴衣越しに感じる彼女の体温に、肌の感触に心臓が高鳴る。いつも抱きしめる感触とは全く異なるそれに、内心で焦る。

浴衣ってこんなに生地薄かったっけ。何かいつもよりダイレクトに感じる気がするんだけど。ああ、これは想像以上にヤバイかもしれない。彼女次第では我慢するつもりでいたけれど、これはかなり危ういかもしれない。

ただ抱きしめているだけなのに、正直に反応する体に、とどまりそうもない理性が崩壊していく。なけなしの理性が、キスしてもいい?、と聞いたのが最後だった。まるで強請るように俺の首へと伸ばされた彼女の腕に導かれるまま、獰猛な本能が牙を剥いた。





理性 × 本能
(イコール、君が愛おしい)