「二口!」

部活からの帰り道。後ろから聞こえた、自分の名前を呼ぶ声に振り返る。

「名字。」

自分を呼び止めたその人の名前を呼べば、彼女がよ、と手を上げた。小走りでこちらへ駆けてくる彼女を立ち止まって、追い付くのを待ってやる。

「今帰り?」

そう、と頷いて、彼女の服装が制服であることに気付く。今日は土曜日で、彼女は帰宅部だった筈だ。何故制服なのかと、思ったままに問いかければ、補習だったのだと彼女は笑った。

「技能検定近いからさ。もう勉強と練習ばっかで脳ミソ溶けそう。」
「そういや、名字は受けるんだったね。」

そうなんだよ、と彼女が苦笑いを浮かべる。ふうん、と声を漏らしてゆっくりと歩き出す。

「補習ってこんな遅くまでやってんの?」

練習が終わったのは18時過ぎだったことを思い出して、また問いかける。俺の半歩後ろを歩いていた彼女が、ううん、と短く否定した。

「補習自体は16時まで。その後鈴木と一緒に残って勉強してた。」

鈴木。彼女の口から出た他の男の名前に、僅かに苛立つ。俺と名字と同じクラスで、ここ最近は特に名字と一緒にいる姿が何かと目につく男だ。

「鈴木も検定受験組だからさ。あいつ頭いいし。」

勉強教えて貰えるから助かるんだよね、と呑気に笑う彼女は、俺の苛立ちなんて気付いてもいないのだろう。彼女と付き合っている訳でもないし、ましてや俺の気持ちさえ知らない彼女が、こんな苛立ちに気付かないのは当然と分かっていて、それでも腑に落ちない暗い感情がぐるぐると渦を巻く。

「最近アイツと仲いいのな。」
「そう?普通じゃない?」
「よく本の貸し借りとかしてるみたいじゃん。」

あー、その辺の好み合うみたいなんだよねえ。

今一緒にいるのは俺なのに、どんな顔でアイツの話をしているのかと、ちらりと彼女の顔を振り返る。その瞬間、ヘラヘラと笑う彼女の後方から猛スピードでこちらへ向かってくる車のヘッドライトが視界に映った。

「名字ッ、」

咄嗟に彼女の腕を引いて、ブロック塀の方へと引き寄せて、彼女を庇うように腕で囲う。その数秒後に、決して道幅が広いとは言えない住宅街を走るスピードとは到底思えない早さで車が通り過ぎていった。

「あっぶねー。」

大丈夫か?、と腕の中の彼女を窺う。大丈夫、ありがとう、と呟いた彼女の目はうろうろとさ迷っていて、俺と目を合わせようとしない。そんなに嫌だったかよ、と内心で舌打ちをして、彼女から体を離した。再びゆっくりと歩き出せば、やっぱり俺の半歩後ろを彼女が歩き出す。

「今のってさ、壁ドンってヤツだよね。」

先に沈黙を破ったのは名字の方だった。少し上擦った声で早口に、結構ドキドキするもんだね、と彼女が捲し立てる。

「鈴木じゃなくて悪かったな。」
「何で鈴木?」

不機嫌さを隠さず呟けば、不思議そうな声が返ってきた。自覚もないのか、とつい顔を顰めるが、ご丁寧に「好きなんだろ」と指摘してやるつもりもない。

「さあ?何でだろうね?」

彼女を振り向きもせずに、軽くはぐらかす。暫くして、背後から聞こえていた筈の足音が聞こえないことに気が付いて、足を止めた。そんなに気に障るようなことを言っただろうか、と訝しみながら彼女を振り向く。ついさっきは俺と目を合わせようとしなかった名字と真っ直ぐに視線がぶつかって、一体何なんだと内心でたじろいでしまう。

「案外、二口って分かってないんだね。」

薄く笑った彼女に、は?、と眉を顰めた。それでも怯む素振りなど見せずに、彼女の口許は弧を描いたままだ。

「二口だからドキドキしたのに。」

ね、この意味分かってくれる?

呟いた彼女の声に、頭の中で何かがぷつんと切れる音がした。
俺を見つめて立ち止まったままの彼女に、一歩、また一歩とゆっくりと近づく。

「え、ちょ、何、近い、」

彼女自身の手で俺の引き金を引いた癖に、俺がどういう行動に出るかは考えていなかったらしい。狼狽えた様子でずるずると後ずさる彼女に容赦なく近付いて、その距離を詰める。先程と同じように彼女を塀へと追い詰めて、その傍らに手をつく。

「それ、俺の都合のいいようにとっていいの?」

彼女が小さく息を飲む。いいよ、と彼女が呟き終わるのを待たずに、言葉尻ごと奪うようにその唇に自分のそれで触れた。

「…何するの、」
「嫌だった?」
「嫌じゃない、けど、」
「けど?」

何か色々すっ飛ばされた気がする。

不満げに溢れた彼女の言葉に、ふ、と吹き出す。

「自分で引き金引いたくせに、何言ってんの。」
「引き金?」

何の話だと言うように首を傾げた彼女に、もう一度小さく口付ける。

「好きだ。だから俺の前で他の男の話なんかするな。」

これで満足?
そう言って笑えば、今度は名字が吹き出した。

「二口がそんなヤキモチ妬いてたなんて知らなかった。」
「だろうね。」

ふふふ、と笑みを溢す彼女の肩をそっと引き寄せて、抱き締める。ぽすんと、いとも容易く俺の胸へと倒れ込んだ彼女の耳元に唇を寄せた。

「簡単に手離してやるつもりなんかないから、覚悟しておいて。」



賽は投げられた
(それが誰の意思か分からなくとも)