カフェの小さなテーブルの向かいに座って、ふるふると肩を震わせている菅原をじろりと睨む。けれど、彼はそんなことに気付く様子もなく、自らの右手で口許を押さえて横を向いたままだ。

「笑いすぎ。」

テーブルの下で、ガツンと容赦なくパンプスの先で彼の脛を蹴ってやれば、いって、と呻いて体を屈めた。ふん、と小さく鼻を鳴らして、ホットコーヒーをすする。いや、だってさ、と笑い混じりに呟いた菅原の目尻には微かに涙が滲んでいる。その涙が、笑いすぎによるものなのか、痛みによるものなのかは敢えて言及はしないでおく。

「プラネタリウムに行って、いびきかいて寝る女子なんて俺初めて見た、」

言いながらまた思い出したのか、ふ、はは、と笑いだした菅原を再度睨んでも、彼は気にも留めずに笑みを溢す。今度は脛を蹴るのではなく、ピンヒールでその足を踏んづけてやろうかという考えが一瞬脳裏を過った。が、彼が現役のバレー部員であることを思い出して、思い止まる。彼がバレーをしている姿は、これでも実は結構気に入っているのだ。本人にそれを伝えたことはないけれど。

「…仕方ないでしょ、レポート終わらせるのに徹夜だったんだから。今日の約束蹴らなかっただけ褒めてよ。」

昼間は講義を受けて、夜はバイトして、その合間に家事をして、と実は一人暮らしの大学生の毎日は忙しいと気付いたのは、入学してすぐだった。さすがに二年にもなれば、日々の生活に慣れてはくるけれど、それでもレポートやバイト、遊びの予定が詰まれば、結局は体力勝負になる訳で。最近リニューアルしたと噂のプラネタリウムに行ってみようという、前々からの菅原の誘いをキャンセルする訳にはいかない、と近々提出期限のレポートを強引に終わらせた結果がこれだ。プラネタリウムなら最悪寝てしまえばいいとは思ってはいたけれど(解説の学芸員さんだって寝てもいいって言ってたし)、いびきまでかいて爆睡してしまったのは、完全な私の失態だ。そもそも、いびきをかいていた時点で女としてどうなんだとか思わなくもないけれど。それを菅原が笑うのは無理はない。とは言えども、あまりに笑われるのは面白くないのも、また事実だ。

「いや、うん、頑張ったんだよな。えらいえらい。けど、開幕早々隣からいびきが聞こえるって、」

くつくつとまた菅原が笑い始める。これ以上はもう何も言うまいと決めて、無言でコーヒーをすする。暫くして一頻り笑い終わったのか、はー、と息を吐いた菅原が、でもさ、と口を開く。

「そんなに眠かったなら、断っても良かったのに。」

それとも、そんなに俺とデートしたかった?

ふふふ、と笑みを浮かべる菅原の顔は、酷く意地が悪い。別にそんなんじゃない、と顔を背けて呟くも、ちらりと盗み見た菅原の笑みは崩れない。

「そう?俺は嬉しかったけど。名字が徹夜でレポート終わらせてまで、今日来てくれたこと。」

さらりと述べられた甘さを含む言葉に、思わずむせそうになってしまった。動揺を隠すように小さく深呼吸を繰り返していると、そんな私など気付いているのかいないのか、菅原は更に言葉を重ねる。

「もう一回、今度は名字の体調が万全な時に行こうな、プラネタリウム。結構良かったからさ。」
「う、うん、」
「で、このあと俺と飯に行く気はある?」

いまいち菅原の言葉の意図が掴めないまま、あるけど、と答えれば、テーブルの上に置かれていた伝票を手に菅原が立ち上がった。つられるようにして立ち上がると、にっこりと彼が微笑む。

「じゃあ、行こうか。思いきり笑ったお詫びに、今日は全部俺の奢り。」
「えっ、」

私が何か答えるよりも先に、レジへとすたすた歩き出してしまった菅原の背中を慌てて追いかける。本当に私に払わせる隙もなく、手早く会計を済ませてしまうと、不意に菅原の手が私の右手に触れた。驚いて手を引っ込めるよりも早く、菅原の手が私のそれを握りこんでしまう。

「ちょっ、菅原!?」
「名字の手冷たいなー。」

聞く耳を持とうとしない癖に、歩く歩幅は小さめで、私に合わせてくれているのだと分かって、居心地が悪い。何食べたい?、と尋ねるその顔は酷く優しい。まるで彼女に向けるみたいだと気が付いて、急激に胸の奥が冷えていく。だって私は精々人より少し仲が良いだけの友達がいいところの存在でしかないのに。

「そんな顔しないでよ。」

ぽつりと呟く。私の言葉が届いたのか、あるいは急に立ち止まった私を不思議に思ったのか、不思議そうな顔で菅原が私の顔を覗き込んだ。

「ん?」
「今度とか約束したり、手繋いだりとか、そんな風に優しい顔したりとか、」

期待するからやめて。

俯いて溢れた言葉は、菅原を突き放すような冷たい声で、その冷たさに内心で驚く。でもこれでいいんだ、と無理矢理言い聞かそうとした私に降ってきた言葉は、思いもよらなかったもので。思わず顔を上げたその視界に映った彼の表情に、思わず息を飲んだ。

「期待してよ。」

期待していいよ、とゆっくり繰り返す菅原の目が、口許があまりに優しくて、甘くて、冷えていた筈の感情がぐずぐずに溶かされるような錯覚を覚えて、視界がゆらりと揺れる。俯いて誤魔化そうとするよりも早く、菅原の手が私の目尻に触れた。そうして離れた手が、ぽんぽんと私の頭を叩く。

「で、名字は何食べに行きたい?」

にっこりと笑う菅原の顔を目に映してから、ゆっくりと目を閉じる。ゆるゆると閉じていた目を開けて、再度映った彼の笑顔に、私も笑みを浮かべる。

「焼き肉ッ!」
「え、マジ?」
「奢ってくれるんでしょ?」

ふふふ、と笑みを溢せば、うわ、容赦ないなー、と苦々しげに菅原が呟く。でもその顔はやっぱり優しさを含んでいて、近い将来この優しさと甘さに満たされるのだと思うと、たまらなく嬉しくなって、更に笑みが溢れてしまう。

ねえ。
期待して、なんて甘い啖呵を切ったのはそっちなんだからさ。ちゃんと決着着けてくれなきゃ、今度は焼き肉だけじゃ許さないかもよ?


触れる、溶ける
(狂気にも似た君の甘やかさに触れてしまったから)