酔い覚ましも兼ねて、飲み会からの帰り道を一人のんびりと歩く。帰るついでに何か飲み物でも買っていこうと思い立って立ち寄ったコンビニで、偶然にも見知った顔を見つけた。

「あれ、名前ちゃん?」

俺に名前を呼ばれて、ドリンクコーナーの前に立っていた彼女が振り向く。

「おお、及川。」

よ、と小さく手を上げた彼女に、ひらひらと手を振り返す。

「ちょうどいいや、ジュース奢ってよ、ジュース。」
「奢りませんー。人の顔見るなり、たかろうとするのどうなの?」
「大丈夫、及川だけだから。」

にっこり笑った彼女がガラス扉に手を伸ばす。ま、本気で奢って貰おうとも思ってないけどね、と付け足した彼女が手に取ったのはミネラルウォーターのペットボトルだった。それにつられるようにして、俺も同じ物を掴む。すぐにはレジに向かおうとせず、店内をうろつき始めた彼女と並んで歩きながら、ふと気がついた。

「そういえば、こんな時間にこんな所にいて大丈夫なの?」

今現在のはっきりした時間は時計を確認しないと分からないけれど、少なくとも先程二次会の店を出た時点で深夜0時をとうに回っていた。一次会、二次会共に飲み会をしていたのは、大学最寄り駅近辺の飲み屋だったから、大学近くにアパートを借りて一人暮らしをしている俺としては徒歩圏内だから問題はない。実際、二次会に参加していたのは俺と同じような境遇の連中ばかりだった。
だけど目の前にいる彼女は違う。実家から片道一時間半かけて毎日大学に通っているのだ。終電がまだ残っているとは考えにくかった。

「多分?」
「多分って何。」
「友達と飲んでたらうっかり終電逃しちゃった。」

あはは、と危機感の欠片もなく笑う彼女に、思わず溜息が溢れた。そんな俺など気にとめることなく、彼女は、漫喫にでも行けばいいかな、と呑気に笑っている。

「だったら家に来る?」
「へ?」

きょとんと目を丸くした名前ちゃんの表情を見て、しまったと思ってももう遅かった。意識して口を噤むよりも早く、言葉が先に出ていく。

「漫喫に泊まるより、家に来た方がお金かからないし、安全でしょ?」
「安全、かなぁ?いや、さすがにそれはちょっと、」
「大丈夫。及川さんこう見えても紳士だから。手出したりなんかしないよ。」





なんて。何が紳士だ。どの口がそんなことを言ったのか。いや、この口なんだけど。いくら想いを寄せている名前ちゃん相手とはいえ、家に誘うなんてあまりにも軽率だった。先にシャワー浴びてきなよ、と彼女に俺の服を渡して浴室へ通した後で聞こえてきたシャワーの水音がやけに気になって仕方なくて。初めて見るすっぴんの可愛さと俺のシャツを着た彼女の姿を見た時には、内心でガッツポーズをした挙げ句、思わず手が出そうになったのを慌てて堪えたのはここだけの話だ。

頭からシャワーのお湯をかぶりながら、落ち着け、と何度も頭の中で繰り返す。彼女はただ朝まで時間を潰すために家に来ただけなのだと。俺とどうこう、なんて考えてもいない筈だし、そんな関係でもない。彼女から見た俺は、大学で知り合った仲の良い、せいぜい気のおけない男友達がいいところで、それ以上の感情も持ち合わせていなければ、きっと意識もしていない。ああ、でも、さっき家に来ないかと誘った時は少し戸惑った顔をしていた。それはつまり、少しは俺のことを男として意識してくれてるってことなのかな。俺が思う以上に、実は意識してくれてる?それとも単純に男の俺を警戒しただけ?

らしくもなくぐるぐると脳内を駆け巡る思考に余程気を取られていたらしく、不意に側で聞こえた名前ちゃんの俺を呼ぶ声に、思わず一瞬ぎくりと固まってしまった。

「及川ー?」

再度聞こえた声に、慌ててシャワーを止める。決して広くはないユニットバスのシャワーカーテンの隙間から顔を覗かせると、俺と同じようにドアの隙間から顔を出していた名前ちゃんと目が合った。その瞬間、彼女が顔を赤く染めてうろうろと視線をさ迷わせたことには気付かないふりをして、どうしたの?と尋ねる。

「あ、の、そこに、指輪ないかな?いつも私がしてるピンキーリングなんだけど、さっきシャワー借りた時外してそのまま忘れたみたいで、」

錆びちゃったりしたら嫌だし、と捲し立てる彼女の言葉を聞きながら、視線をシャワーへと戻した。バスタブの縁に置かれた見覚えのある小さな指輪を見つけて、指先で掴む。

「あったよ。」

そう言えば、良かった、と彼女が安堵したように呟いた。再びシャワーカーテンから顔を出すと、取って貰えるかな、と差し出された彼女の華奢な手を見つめる。目線は相変わらず行き場を探すようにうろうろと定まらなくて、顔は赤い。それが堪らなく可愛くて、指輪を掴んだ手とは反対の手で、彼女の細い手首を掴んだ。

「っひゃ!?」

くい、と軽く引っ張ると、いとも容易く彼女の体はこちらへと傾いた。そのまま倒れないように、反対の手で彼女の腰を支える。

「ね、今俺のこと意識してる?ドキドキしてる?」
「し、してない!」
「そのわりには顔赤いけど。」
「それはっ、まだ酔ってるからでっ、」

首ごと顔を逸らして、俺と目を合わせようとしない彼女に、ふうん、と声をもらす。ならば、と、その耳に自分の唇を寄せた。

「俺は意識してるよ。本当は今すぐにでも手出したいくらい。」
「なっ、手、出さないって、さっき、」

手を出したい。その言葉に反応したのか、勢いよくこちらを振り向いた名前ちゃんが、口をぱくぱくとさせる。そんな彼女にやんわりと微笑んでみせる。

「うん、約束したからね。手は出さないよ。でも、俺のこと意識してくれたら嬉しいかな。」

そう言って、彼女の手のひらにそっと指輪を乗せて握らせてから、手を離した。

「ちゃんとあって良かったね、指輪。」

にっこり笑ってみせても、茫然と俺を見つめたまま立ち尽くしている名前ちゃんに、内心で苦笑いを溢して、代わりに顔はいつもの笑顔を浮かべる。

「シャワー浴びたいんだけどなあ、俺。もしかして見惚れちゃった?あ、それともこのまま一緒に入る?」
「っ、誰が入るかっ!バカじゃないの!?」

くるりと彼女が踵を返すと、バタンと勢いよく閉められた扉に、くすくすと笑みを溢す。
怒ったり笑ったり、赤くなって狼狽えたり。くるくる表情が変わる彼女が可愛くて堪らないから困る。今もその扉の向こうでどんな顔をしているのだろう。

本当は欲に任せて彼女に触れたいくせに、手を出さないなんて、だめ押しをするように約束をして。これじゃあ、自分で自分の首を締めるようなものだと自嘲する一方で、それでいつか彼女が俺を意識してくれるようになって、その全てを一人占め出来るようになるのなら、この程度のことなんていくらでも耐えてみせるとか思ってしまう俺は、もしかしたらちょっとマゾヒスティックなのかもしれない。

ああ、でも、やっぱりあんまり長くはこんな生殺しの状況を耐えたくはないから、早く俺のこと好きって言って笑ってくれないかな。



とある日の青年の苦悩
(早くこの腕で君を抱きしめたいんだ、)