「菅原!」
教室を出て行こうとした彼の後ろ姿を慌てて呼び止めた。くるりと振り向いた彼の肩には鞄がかけられていて、恐らくこれから部活に向かうのだろう。菅原の隣を歩いていた澤村は気を使ってくれたのか、すたすたと歩いて行ってしまった。
「あのさ、」
「ヤダ。」
「ちょっ、」
口を開きかけた瞬間に、にっこり笑顔で嫌だと一蹴されて思わずたじろぐ。私まだ何も言ってないじゃん、と口を尖らせれば、菅原は全く悪いとは思ってない様子でごめんごめん、と笑う。その笑顔がまた変わらず爽やかでカッコいいのだから、イケメンはズルイ。
「今日は何をご所望ですか?」
顔は笑っているのに、わざと敬語を使ってくる辺り棘がある。とは言っても、菅原の問いかけは私の用件と一致しているし、返す言葉を持ち合わせていなければ、頭も上がらないのだからどうしようもない。
「化学のノートをお貸し願います。」
ぺこりと頭を下げつつ両手を差し出せば、はあ、と大げさに溜め息をついた菅原がごそごそと鞄を漁る気配がする。そのままの姿勢でじっと待っていると、差し出した掌の上にぽんと平たい物が乗せられた。それを両手で掴んで顔を上げれば、私の手の中にはノートがあって、その表紙には見慣れた菅原の字で「化学」と書かれている。
「ありがとうございます!お借り致します!」
借りたノートを掲げて仰々しくお礼を述べて菅原を見上げると、呆れ顔の菅原と目が合った。
「受験生なんだから寝るなよなー。」
「いや、寝るつもりはないんだよ、寝ないようにむしろ耐えてるんだよ。でも気がつくと授業がすごい進んでるんだよ。」
「寝てんじゃん。」
言い訳をばっさりと切り捨てられてしまってはぐうの音もでない。それでも眠くなってしまうものは、どうしたって眠くなってしまうのだから仕方がないと思うのだ。数学のように自分で考えて手を動かしている時間はまだいいけれど、長々と先生の話を聞いている時間はどうにも退屈で、退屈だと思ったら最後、眠気が襲う。眠気に襲われてしまえば、重くなる瞼に抗う方が困難で結局寝てしまう。そうして板書できなかった分のノートを菅原に借りる、というのがいつの間にか日常と化していた。
「名字頭いいのに、授業中寝てたら勿体ないよ。」
「いやいや私なんて全然。菅原のノートが分かりやすいから何とかなってるだけで、」
「とか言いながら毎回しれっとテストで俺よりいい点取ってるくせに、よく言うよ。」
「それはあれだよ、菅原がバレー頑張ってる時間に私が勉強してるからだよ。」
「うわ、それ名字に言われると何かムカつく。」
眉を寄せた菅原に、口許を歪めてふふふ、と笑みを零す。
「バレーを選んだのは菅原でしょ?」
「そうだけど。」
「だから私は居眠りを選んだのです!」
菅原と一緒だね!、と笑ってみせた瞬間に、ばちっと鈍い音が響くと同時に額に激痛が走る。
「いった!」
痛みで若干涙目になりつつも、私の額を思い切り弾いた張本人、菅原を額を押さえながら見上げる。すると今度は両頬をぐいぐいと引っ張られた。
「俺を引き合いにして自分の居眠りを正当化しようとするなー。そういうこと言ってるともうノート貸さないぞ。」
「ふひはへんへひは、」
「何言ってるか分かんねー。」
ぱっと掴まれていた両頬を解放される。くつくつと喉で笑う菅原は完全にからかいモードに入っている。こうなった菅原にはこれまでの付き合い上、勝てた試しがない。となると、私に残された選択肢は一つだ。
「どーもすみませんでした!早く行かないと部活遅れますよ、菅原サン!」
もう少しこうして菅原と他愛のない会話をしていたいのが本音ではあるけれど、時間がないのも事実だ。菅原を部活へと追いやってしまえば、少なくとも彼のからかいからは逃れられる。…同時に菅原本人がいなくなる訳だから、菅原との会話も終了してしまうのだけれども。
「あっ、やべっ、じゃあまた明日な、名字!」
さっと手を挙げてばたばたと廊下を走っていく菅原を、手を振って見送る。
「また明日ー。」
また明日。
あと何回その言葉を言えるのだろう。あと何回その言葉を菅原から聞けるのだろう。ノートを借りたり、テストの点数を競ってみたり、居眠りして怒られたり、からかったり、からかわれたり。そんな何気ない日常があとどれくらい続くのだろう。あとどれくらい繰り返せるのだろう。
卒業という名の終わりがあることを知っている以上、この日常が永遠だなんて思わないけれど。
それでも、今の何気ない毎日が、菅原と笑っていられる日々がどうか永遠であったならよかったのに。
信じたいのは不変
(いつかは終わりが来ることを知っているから)
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