「…。」

沈黙が怖い。自主的に正座している私の正面では、大地さんが無言で一枚の紙を見つめている。その紙とは、先程私自身が大地さんに手渡した今日の数Uの小テストの答案用紙だ。点数は10点。もちろん100点満点中、のだ。ちらりと横目で同類のノヤっさんと田中を見れば、それぞれスガさんと縁下に勉強を教わっている。恐る恐る目の前の大地さんを見上げれば、大地さんは盛大な溜め息を吐いた。ぐりぐりと眉間を揉んでいる。

「まあ、一つずつ理解していくしかないだろう。」
「お、怒らないんですか…?」

おずおずと聞くと、大地さんは数回目を瞬かせた後で苦笑いを浮かべた。

「これが期末テスト本番だったら、そうしたかもしれないけどな。」

その言葉に、ほっと胸をなで下ろす。とりあえず今は怒られる心配はないらしい。だけど、言い変えればそれはつまり、期末テストで同じような点数をとれば怒られるかもしれない、ということだ。東京遠征へ行けないばかりか、大地さんに怒られるなんて、想像しただけで恐ろしい。

「で、どこが分からないんだ?」

躓いたのはどこだ?
大地さんのその質問に思わず俯く。勉強が出来ない自分を思い知らされるようで、情けない。たった10点というテストを見せている時点で既に醜態を晒しているというのに、更なる醜態をよりにもよって片思いしているその人に、晒さなければならないことがまた情けない。

「どこが分からないのか分かりません…。」

正直に白状すると、大地さんは本日二回目の大きな溜め息を吐いた。




昼休みになるや否や、教室を飛び出した。手には昨日や今日返却された期末テストの答案用紙を持って。
早く大地さんに報告したい。その一心で廊下を走る。いつもは緊張する慣れない三年生の教室が並ぶ廊下だって、今日は気にならない。他の誰かなんて視界にも映らない。ただただ烏野バレー部主将、その人だけを目指す。

「大地さん!」

大地さんがいるはずの三年四組の教室。そのドアから名前を呼べば、私に気がついた大地さんが一瞬驚いたような顔をして私の元へと来てくれた。

「名字、どうした?」
「コレッ!」

見て下さい、と手にしていた答案を差し出す。それを受け取った大地さんが、ぱらぱらと用紙を眺める。

うずうずする。よく頑張ったな、そう言って褒めてほしくて、うずうずする。まるで子供の頃、100点を取ってお母さんに褒めてほしかったあの頃の気持ちに似ている。…100点なんてもう随分と長いこと取った記憶がないけれど。気が付いた頃には理数科目がすっかり苦手になっていて、苦手意識は消えないままコンプレックスへと変わった頃には、赤点常習者の仲間入りをしていた。
その私が高校に入って初めて、数学や化学といった理数科目を含んだ全教科で赤点を回避できたのだ。褒めて欲しくてたまらない気持ちは、少しくらい理解して欲しい。子供ようだと、あるいは従順な犬のようだって笑われたっていい。

「すごいじゃないか、名字!」

欲しがっていた大地さんからのストレートな褒め言葉に、顔が一気に綻ぶ。もしも私が犬だったなら、きっと両耳をぴんと立てて、尻尾をぶんぶん振っているに違いない。
大地さんの大きな手が伸びてきて、わしゃわしゃと乱暴に髪を撫でられる。

「わ、わわっ、」

まさか撫でてもらえるなんて思ってなくて、思わず目を閉じて肩を竦める。豪快に私の頭を撫でる大地さんの手はまだ離れる気配はなくて、閉じた目を開けて大地さんを窺えば、嬉しそうに笑っている。それが私だけのために向けられた笑顔だと思うだけで、どうしようもなく嬉しくなる。

「やれば出来るじゃないか!」
「いえ、あの、大地さんが根気よく教えてくれたからで、」

分からないと繰り返す私を見捨てることなく、私が理解するまでどれほど時間がかかっても嫌な顔一つせずに、大地さんは勉強を教えてくれた。今私がこうして笑っていられるのは、紛れもなく大地さんのおかげだ。

「俺は何もしてないよ。これは名字自身が頑張った結果だ。」

答案用紙を返しながら、大地さんが笑う。その大きな手が離れてしまったことが、少し寂しい。よく頑張ったな、そう言って笑ってくれたその表情に、思わず好きです、と言いかけて慌てて口を噤む。代わりに、ありがとうございました、とお礼を述べてぺこりと頭を下げた。

「じゃあ、私そろそろ戻りますね。お昼ご飯の途中にすみませんでした。」
「いや、わざわざ報告に来てくれてありがとうな。」

良い報告が聞けて嬉しかったよ、と微笑んでくれた大地さんにもう一度頭を下げてくるりと踵を返す。

危なかった。ついうっかり口を滑らせる所だった。だって、あんな風に大地さんが私に笑いかけてくれるなんて思いもしなかった。私の頭を撫でて、欲しかった言葉を全部くれた。真っ直ぐに私を褒めてくれた。これくらい出来て当然だ、なんて理解のない言葉は一つとしてなかった。そのことがたまらなく嬉しかった。嬉しくて思わず、ずっとひた隠しにしてきた思いを告げてしまう所だった。

どうしよう。このまま今までと同じように、私は自分の気持ちを隠し続けられるのかな。自信がなくなってきてしまった。それならいっそ、思い切って伝えてしまおうかとさえ、無謀な考えが脳裏を過る。どうせ無謀な挑戦をするのなら、その前に一つだけ自分と無謀な賭けをしてみようか。次の定期テストで全教科平均点を超えられたら。

その時は、好きですと伝えてみようか。




reckless betting
(さあ、勝つのはどっち?)