多分、いや間違いなく、俺は浮かれていたんだと思う。




出先で偶然大地に会って、久しぶりに飯でも一緒に食おうってことになったのが午後四時頃のこと。寒いし家で鍋を食べようかという結論に至ったものの、男二人で鍋、というのも何だかもの足りなくて。(旭にも声をかけたけれど、都合がつかず断られてしまった。)俺の気持ちを高校時代から知っている大地に、この際だから彼女を誘ってみたらどうだと唆されるまま、彼女を誘おうと言い出したのは大地なんだと、俺が言った訳じゃないんだ、という言い訳という名の大義名分を抱えて電話したのが、およそ三十分後で。酷く緊張した声の彼女が「行きたい」と言ってくれた時点で少なからず俺はもう浮かれていた。

彼女、名字さんに会うのは成人式以来で、振り袖姿じゃない、ましてや高校時代にいつも見ていた制服でもない私服姿の彼女は可愛くて。そんな彼女が自分の部屋にいること自体がもう嬉しかった。

他愛のない会話をしながら三人で食べる鍋は楽しくて、お酒も進んで。名字さんが一本目の缶チューハイを飲み終えて、二本目に手を伸ばした時点で彼女の顔が赤くなっていることには気付いていた。だけど、本人が平気そうだからまあいいか、なんて呑気に構えていた時点で俺は判断を誤っていたのだろう。顔が赤くなるイコールお酒が弱い、という等式が必ずしも成立する訳じゃないことを、成人してから少しずつ覚えてきていたことが仇になったのかもしれない。もしかしたら彼女もその等式に当てはまらない一人なのかもしれないと勝手に思い込んでいた気がする。

結局、彼女含め、俺も大地も買い出し時に買い込んだビールやチューハイ、果てはノリで買ってみたワインまでもを空けて、気が付いた時にはすっかり出来上がっていた。アルコールの力で眠そうに目をとろんとさせていた名字さんの艶やかさに内心で生唾を飲みつつも、とりあえずはそっとしておこうと大地と二人決めて、食べ終えた鍋の後片付けを終えて戻った時には彼女は座ったままこっくりこっくりと船を漕いでいた。一瞬どうしたものかと大地と顔を見合わせた後で、終電も近いしこのまま寝かせておくわけにもいくまい、と彼女の側にしゃがみこんだ。彼女を起こそうとその細い肩にそっと手をかければ、あろうことかぐらりと彼女の体は俺の方へと傾いた。咄嗟に彼女を抱き止めて、俺の膝へと彼女の頭を乗せれば、彼女は気持ちよさげに眠っていて。声をかけても肩を叩いても起きる気配のない彼女に白旗をあげたのは俺の方だった。大地はといえば、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてその一部始終を見届けた後で、終電がなくなるからとさっさと帰ってしまったのだから、案外薄情なヤツだと思う。

それからどれくらい経ったのか、膝の上で眠ったままの名字さんが小さく身動ぎをした。ゆるゆると目を開けたものの、未だ虚ろな目をした彼女を見下ろす。

「お、起きた?」

さらさらの彼女の前髪をそっと撫でつつ、大丈夫か?と顔を覗き込んで問えば、彼女がふにゃりと笑う。その笑顔の破壊力に内心で狼狽える。

何、この無防備な笑顔。滅茶苦茶可愛いんですけど。

そんな俺のことなど気付く様子もなく、何を考えているのか、彼女の白い手がゆっくりと伸びて俺の頬に触れた。そっと撫でるように触れる彼女の手に、心臓がいつになく速いスピードで脈を打つ。温かな彼女の手の熱に、滑らかなその感触に変な欲が出そうになる。

「名字さん?」

自分から彼女の手を掴んで引き離すこともできずに、ただただ彼女を見つめる。

どうか、その手を離して貰えないかな。触れてくれることは嬉しいんだけど、アルコールの入った今の俺じゃどこまで理性をコントロール出来るかなんて自信が無いんだ。

それなのに、すき、と紡いだ彼女の唇に、目が釘付けになる。

「すがわらくんがずっとすきだったの。」

幾分か呂律の回らない舌で、今も大好きだと告げて離れていく彼女の手。幸せそうに頬を綻ばせる彼女の目は相変わらず虚ろなままで、多分寝惚けているか、まだ大分酔っているのだ、と冷静な自分が忠告をする。だから踏み止まるのだ、と。

「…あー、もう、」

どうしたものか、と顔を手のひらで覆う。理性が早まるなと、堪えるんだと警告する。だけど、本能が、彼女を好きな気持ちが、我慢出来ないと訴える。

「そんな顔でそんなこと言われたら我慢出来なくなるだろ…。」

名字さんのせいだから、なんて我慢出来なかった本能を棚上げしながら、狡い言い訳を口にして、彼女の唇に自分のそれをそっと重ねた。微かに香るアルコールの匂いにもっと、と欲しくなる欲求をなけなしの理性で堪える。

ゆっくりと唇を離して、顔を上げる途中で、ごつん、と額がぶつかる。突然の痛みに小さく呻きつつも、彼女を窺えば、ようやく覚醒したようで、額を抑えながら、きょろきょろと辺りを見渡している。

「大丈夫?名字さん。」

彼女の顔を覗きこむと、みるみるうちに彼女の顔色から血の気が引いていく。

「あ、の、もしかして、全部夢じゃなかっ、た?」

その言葉に、やはり寝惚けていたのだと悟って、不味いことをした、と内心で焦る。曖昧に頷くと、明らかに驚いた顔をした彼女に、やってしまった、と今更になって後悔が募る。やっぱり踏み止まるべきだったんだ。キスなんて、するべきじゃなかったんだ。だけど、

「ごめん、でも俺もずっと名字さんのこと好きで、もしかして寝惚けてるのかなって分かってたんだけど、」

何を言ったって言い訳にしかならない。でも、名字さんを好きな気持ちはせめて伝わって欲しい。怒られたって、詰られたって構わないから、どうか。

苦し気に眉を寄せて、名字さんが俯く。口元に手を当てて、きもちわるい、と呟いた彼女の言葉の理由がアルコールによるものだと気付くのに、一瞬時間がかかってしまった。自分のことを言われたのだと一瞬誤認した俺は、相当余裕が無いらしい。

覚束ない足でよろよろと歩く彼女を支えてトイレへと連れていき、背中を擦って介抱する。そうして落ち着いた彼女が、再び目を覚ました時、どうかあの告白を、キスを忘れていませんように、と願うことは許されるだろうか。





三歩目、ゼロ距離
(どうか覚えていて、)