彼は確かに戦っていた。あの場所で、あの瞬間を戦っていた。正セッターじゃなくなる、そう言っていたけれど、彼は彼なりの方法で、彼なりに全力で戦っていた。すごいすごい、と、おれもなまえちゃんみたいになる、と私の試合の応援に来た後で、興奮したように私に宣言して、私を追いかけていた彼はもういない。

懐かしいと思った。就職してバレーをやめてしまったけれど、それまではずっとバレーをしていた。セッターとして、何度も何度もトスを上げた。酸欠になる頭で必死に攻撃を組み立てた。そうして、勝利を掴んだこともあった。だけど、それ以上に何度も敗北を味わって、慣れない悔しさに何度も打ちひしがれた。いい試合だったと、頑張ったね、と言われたって素直に受け取れなかった。それでも負けは負けじゃないか、と。
けれど、いざ自分が逆の立場になってみて、初めて気がついた。それしか言葉が見つからないのだと。いい試合だったね、頑張ったね。それくらいしかかけられる言葉が無いのだ。他にどんな言葉を言ったって、慰めにもならない。

ケータイが着信を告げて、一人きりの部屋に鳴り響いた。ゆっくりと手に取る。

「はい。」

努めて明るい声を出す。これ以上、彼の心に負担をかけないために。

「…孝支だけど、」
「うん。」

頷いて彼の言葉を待つ。私一人先走らないように。彼を傷付けないように。

「今日、来てくれてありがとう。」
「どういたしまして。お疲れ様。」

うん、と孝支が呟いて、沈黙が広がる。彼の声を聞き逃さないよう、耳に神経を集中させる。

「今日凄く悔しかった。勝ちたかった。もっとバレーしたいって思った。」

黙って孝支の言葉を聞く。
最後のインターハイ。夏が終わる。その悔しさは私も知ってる。だけど、分かるよ、なんて言わない。少なくとも私は、同情なんて欲しくなかったから。

「だから俺、春高行く。」
「え?」

思わず聞き返してしまった。今、春高って、そう言った?

「春高?いや、だって春高は、」

三月だから三年生は出られないでしょ、と言いかけて、はっと思い出した。そうだ、今は春高は三月じゃない。一月開催にいつだったか変わったのだ。私の頃は三月だったから、インターハイが最後だったけど、今の世代の彼らはそうじゃない。

「そ、っか、春高か。」

春高という選択肢が無い訳じゃない。その選択をする人がどれほどいるのかは分からないけれど、でもそれはどう考えたって楽な選択じゃない。彼らのこの先には、受験や就職という新たな、部活を引退していたって苦しい戦いが待っているのだ。それでも孝支は春高へ行くと言った。

「うん。俺、まだバレーしてたいんだ。皆とバレーしてたい。だから、春高行く。」

電話の向こうではっきりと自分の意思を話す孝支の声に、思わず吹き出してしまった。

どうして彼はこうも、

「何?」

怪訝そうな孝支の声に、いやごめん、と謝る。

「苦しい選択肢ばかりを選ぶんだなあって。」

自分がやりたいこととはいえ、彼は何一つとして妥協するつもりはないらしい。バレーも、進路も、彼は多分どちらも諦めるつもりはないのだろう。妥協すれば、何かを諦めてしまえば楽になれるのに、そんなつもりはないらしい。

「駄目、かな。」
「いいや?むしろいいんじゃない?辛い選択をして乗り越えた人程、カッコイイし強くなれる。」

その分リスクは大きいし、その途中の道のりは多分とてつもなく苦しい。それでも自分が選んだ道なら迷わず進めばいい。

「だけど、自分で選んで決めたことなら、それがどんな結果でも後悔はしないで。」

ましてや、他人のせいになんてしてはいけない。

「うん。」

力強く頷いた孝支の声に、微笑む。きっと彼なら、孝支なら大丈夫。何の根拠もないのに、私の直感がそう囁く。大丈夫。きっと大丈夫。

「そういえば、誕生日、何が欲しい?」

もうすぐでしょ?と聞くと、孝支が電話の向こうで嬉しそうに頷いた。

「名前さんの手料理食べたい。」
「は?え?私の?」

予想していなかったリクエストに戸惑う。

「いや、私のじゃなくたって、世の中おいしい店はたくさん、」

あるじゃないか、と言いかけた言葉は孝支に遮られてしまった。

「俺は名前さんが作ってくれたのがいい。」

はっきりと言われてしまって、多分これはもう何を言っても折れないだろうなと判断する。意外と頑固な所は昔と変わらないらしい。

「じゃあ、何食べたい?」
「激辛麻婆豆腐!」
「…。」

それは私は飯を食うなということだろうか。まあ、最悪持ち帰らせるか、調節できる手段がないか、後で調べてみるとしよう。

「うん、分かった。考えとく。」
「よっしゃ!楽しみ。」

嬉しそうな孝支の声にまた笑みが浮かぶ。孝支が笑ってくれるなら、喜んでくれるならそれでいい。彼の顔が悲しみに歪んでしまわないために、私に出来ることがあるのなら、最善を尽くそうじゃないか。
そんなことを考える私は、孝支に甘いのだろうか。
変わっていないのは、私の方なのかもしれない。