約十年前と何一つ変わっていない菅原家へと孝支を、車で送り届けて、もうすっかり住み慣れたマンションの部屋へと帰る。バッグを片付けて、黒のパンツのポケットからケータイとキーケースを取り出す。ケータイはローテーブルの上に、キーケースは外した腕時計と一緒にいつもの定位置となっているトレイの上に置く。アクセサリー類を全部外して、風呂場に直行しようとして、テーブルの上に置いたケータイのランプがメッセージの受信を知らせて点滅していることに気付いた。
メッセージの送り主は、車を降りる直前に連絡先を教えてと言われて交換した孝支だ。

『今日はごちそうさまでした。名前さんと再会できて嬉しかったです。また名前さんに会いたいです。』

受信時間は今から約10分程前。孝支を降ろして、ここへ帰るため車の運転中に送ってきたらしい。無機質な液晶の画面に浮かぶ、どこまでもストレートな言葉たちに、思わず額に手を当てて項垂れた。ずるずるとその場にしゃがみこむ。

「私を一体どうしたいんだ、アイツは…。」

誰もいない部屋で一人ごちる。
人のことを初恋だと言ったり、運命だとか、また会いたいなんて。大人をからかうのにも程がある。高校生のガキのくせに。…そのガキに踊らされているのは他でもない自分なのに。

「なーにやってんだか。」

ここのところはずっと、仕事仕事で恋愛から随分長い間遠ざかっていたツケがまわってきたのだろうか。そういえば、前の彼氏と別れてからもう三年以上経っている。別の誰かといい雰囲気になった覚えも、恋愛をした覚えもない。…そもそも恋愛をしたいという気持ちも忘れてしまっていた気がする。たったこれだけのことで、一人右往左往する自分が情けない。それも高校生の、まるで弟のように過ごしてきた孝支に、だ。

「アホくさ。」

自嘲するように呟いて、返信する。

『随分と成長していて驚きました。また、は予定が合えば。』

送信して、ケータイをローテーブルの上に軽く放る。今はとりあえず早く化粧を落としてさっぱりしたい。そうしてベッドに倒れ込んで、一週間頑張って働いた体を、脳を休ませたい。ただ、それだけだ。





ぱちり、と目を覚ました。辺りはすっかり明るくなっていて、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。
そういえば、昨夜はシャワーを浴び終えたところで力尽きたんだったと思い出す。昨日は月末ということもあって早めに上がれたものの、ここのところずっと早朝から夜遅くまで残業続きで、体力的に限界だったのだろう。学生時代と比べると、随分と体力が落ちたよなぁと一人苦笑いを浮かべた。

ふと、昨夜からテーブルの上に置いたままだったケータイに手を伸ばす。充電し忘れていたせいで、バッテリー残量が残り僅かになっている。慌てて充電器に繋ぐ。充電しながら使うのは良くないと知りながらも、昨夜のうちに届いていたらしい孝支からのメッセージを開く。

『じゃあ、今度はいつ会える?』

本当に会いたがっているんだな、と思わず吹き出す。私に再び会えたことが、彼にとってはそんなにも嬉しかったのだろうか。確かに記憶の中の彼は、私にとても懐いていたけれど、あれからもう十年も経ったのだ。初恋だったとは言っても、昨夜会った彼は彼なりに歳を重ねて随分落ち着いたように見えたのに。

返信しようとして、ふと迷う。ここしばらくは、受け持っているプロジェクトが重なって動いていてかなり忙しい。今月は何とか免れたけれど、来月は休日出勤を回避できない気がしている。そうなると、週末もどうなるか分からない。仕事かもしれないし、休みでも外出する気力があるかどうか。正直怪しい。
折角約束をしても、私の仕事で反故にしてしまうのも申し訳ない。

『ごめん。仕事が忙しくて、今はまだいつ時間がとれるか分からないから、また後日連絡させて。』

多分、これが今の状況でのベストだろう。送信してから、そういえば前の彼氏と別れた原因はこれだったな、とふと思い出した。
仕事と俺とどっちが大事なんだよ!?と答えようもない、ありきたりな台詞をある日突然突きつけられた。少しずつ仕事を覚えて慣れて、任されることがどんどん増えて。任されることが嬉しかったし、今でもこの仕事が好きだと思う。だけど、仕事が増えて充実する代わりに、プライベートはどんどん失われていった。自分のことで手一杯で、彼氏を気遣う余力も、次第に彼氏と会う気力さえ無くなっていった。そうして最後には、お前は俺がいなくても平気なんだろ、と吐き捨てて彼は私の前から去って行った。

「…ヤなこと思い出したなあ…。」

呟いて、嫌な記憶を振り払うように頭を振る。俺がいなくても平気なんだろ、なんてまるで強い女みたいなレッテルを貼られて、傷つかなかった訳じゃない。だけど、少なくともあの時の私には時間的にも精神的にも余裕がなくて、返す言葉は一つとして見つけれられなかった。

あんな風にまた誰かに突き放されたら。

その恐怖は今も消えない。

『分かった。でも時々メールはしてもいい?』

いいよ、と短く返信する。ぱんっ、と自分の両頬を叩く。折角の休日の朝だっていうのに、沈んでたら勿体無い。過去は過去だ。今更どうしようもない。未来のことだって、この先誰とどうなるかなんて分からない。だったら俯いて歩くより、上を向いていた方がずっといい。

さあ、前を向け。