物心つく頃には、隣の菅原家でお世話になることが当たり前になっていた。宿題をして、夕飯を食べて、風呂に入る。そうして眠くなった頃、仕事を終えた母が菅原家に迎えに来る。そんな生活がずっと当たり前だった。
両親が結婚してすぐに引っ越した家の、その隣に住んでいた孝支の母親と私の母は、歳が近いこともあって随分仲が良かったらしい。私が産まれる直前に父を事故で亡くし、女手一つで私を育てることになった母を助けてくれたのが、孝支の母親だったのだ。

そして、菅原家待望の赤ちゃん、孝支が生まれたのは私が10歳の時だった。それからは、本当の姉弟のようにずっと仲良く過ごしてきたのだ。母の仕事の都合で東京へ転校した、高校二年に進級する直前までは。

だから、私の記憶の中には、小さな体で「なまえちゃん」と何度も呼んで私にじゃれる幼くてかわいい彼しかいない。ランドセルを背負って学校に通う姿さえも記憶にない。彼が小学校に上がる直前に、私は彼の前から姿を消したのだ。彼との最後の記憶は、「いっちゃやだ」と私に抱きついて泣きじゃくる彼を宥めて、手を振った姿だ。

それがどうだろう。あれから十年の月日を経て目の前で嬉しそうに、見るからに辛そうな麻婆豆腐を頬張る彼は、どう見たって若くてイケメンの高校生だ。色素の薄い髪や、目元の泣きぼくろ、整った顔立ちに残る面影は確かに記憶の中の彼と一致するというのに、別人のような気さえする。

「一口食べる?」

じっと眺めていたせいか、視線に気づいたらしい彼と目が合った。食べていた麻婆豆腐を差し出されて、お断りする。そんな辛いものを食べたら悶え苦しむのは目に見えている。

「いや、いい。」

代わりに自分が頼んだ酢豚を口に運ぶ。甘酸っぱいタレに絡んだ豚肉と野菜が美味しい。

「それにしてもよく私だって分かったね。」
「だって名前さん全然変わってなかったから。そりゃ化粧してたし綺麗になってたから、すれ違った時一瞬迷ったけど、でもすぐに分かったよ。」

それに、と続けた孝支の顔を見上げる。ニッと笑った彼に真っ直ぐ見つめられる。

「名前さんは俺の初恋の人だから、忘れたことなんてなかったよ。」

ぽろり、と口に運ぶ筈だったご飯が箸の上から溢れ落ちる。さらりと告げられた発言に、開いた口が塞がらない。対する孝支は何とも思ってないようで、笑みを浮かべながら、名前さんご飯落ちたよ、なんて呑気に指摘している。

いや、ちょっと待ってよ。十年ぶりに再会した女にさらっとそういうこと言うか?姉弟同然にずっと過ごしてきた人間に、再会して早々そんなカミングアウトしなくても。

テーブルの上にこぼれ落ちたご飯を箸で拾って口に運ぶ。さっきまで美味しく食べていた筈なのに、味がしないのは私が動揺しているせいだろうか。

いや、待て、落ち着け自分。孝支はただ私が初恋だと言っただけで、今も好きだとか言った訳じゃない。そうだ。そんなことは彼は言っていない。彼だって年頃の男の子なんだから、好きな子はきっと別にいる筈で、忘れずに覚えていたというのは、多分きっと初恋という思い出が彼の中で美化されてしまっているだけだ。そもそも初恋って言ったって、それこそ幼少期や思春期によくある年上への憧れを恋と思い込んでいるだけかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。
だから落ち着け。十も下の高校生にたった一言で惑わされるなんて、らしくない。

「名前さんはいつからこっちに戻ってたの?」

問われて頭の中で計算する。大学を卒業して、就職と同時にこの土地に戻って来たから、

「五年前かな。もうすぐ六年。」

口にしてうわ、と内心で驚く。もうそんなに経つのか。ついこの間まで新入社員だったのに、いつの間にか中堅と呼ばれる世代だ。どうりで次から次へと後輩は増えるし、年だってとる筈だ。気がついたらアラサーという方が近いし、目の前の孝支だって小学校にも入っていなかったのに、来年には高校を卒業するのだ。時の流れとは本当に恐ろしいとしみじみ思い知る。

「そんなに経つのに、今まで一度も会わなかったんだね。」
「まあ、世の中そんなもんでしょ。」

同じ時間、同じ場所に同じタイミングではちあわせることなんて友達同士でもそうそうない。だから希に起こる「偶然」に人は驚くのだ。

「じゃあ、今日名前さんと会えたのは運命だったのかな。」
「ぶふっ、」

運命。予想の遙か斜め上をいった言葉に、あやうく口の中で咀嚼していたご飯と酢豚を吹き出しそうになった。すんでの所で左手で口を塞いで堪らえる。げほ、ごほ、と咳き込みながら急いで口の中のものを飲み込んで水を流し込む。
大丈夫?と私を窺う孝支の顔はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていて、わざとその言葉を選んだのだと悟る。

初恋。運命。淡く甘いそれらの響きをフィクションの世界では目にしていても、リアルで聞いたのは随分久しぶりだ。初恋なんてもう随分遠い記憶だし、運命だなんて言葉は、いつからか考えもしなくなった。…それこそ、初恋だ何だとはしゃいでいた頃は、まだ運命なんてものを信じていたような気がするけれど。

「大人をからかうのも大概にしときなよ。」
「からかってなんかないよ。全部俺の本音だし。」

にこにこ笑う。だからその笑顔で戯言を吐くのを止めろって言ってるんだよ。



…ああ。あの頃の素直でかわいい孝支は一体どこに消えたんだろう。