一年の秋、いつものようにクラスの男子達と昼休み目一杯バスケをして遊んで、慌ただしく教室へ戻ろうとした時だった。五限目が体育だったようで、体操着姿で体育館に来たスガさんにすれ違い様声をかけられた。

「名字。」
「はい。」
「元気がいいのはいいことだけどさ、その格好で男子とバスケするのはどうかと思うよ。」
「へ?」

何を言われたのか理解出来なくて、首を傾げると、スガさんは困ったように笑ってそれ、と指さした。

「キャミソールにそんな短いスカートじゃ、誰がどんな目で見てるか分かんないよ。」
「えっと、」
「名字は女の子なんだから、もっと自覚して危機感持った方がいいって事。」

トン、と額を突かれて思わず一瞬目を閉じる。突かれた額を押さえてスガさんを見れば、早く戻らないと遅れるぞ、と笑って踵を返した。その背中を私はただ呆然と見つめていた。

がさつな性格と幼い頃からの短い黒髪、男同然の見た目が相まって、女扱いされたことは一度もなかった。初めてされた女扱いは酷くふわふわとくすぐったくて、あったかくて、嬉しかった。

あまりに単純だと我ながら思うけれど、確かにあの瞬間、私は恋に落ちたのだ。




「さいっあくだ…。」

合宿二日目。早朝目が覚めるなり、昨夜の自分の失態を思い出して頭を抱える。情けない昔話をした挙句、人目もはばからずぼろぼろ泣いた自分。スガさんはあの後もずっと、私が落ち着くまで頭を撫でながら何も言わずに肩を貸してくれていた。冷静になった後の諸々に対する恥ずかしさは今思い出しても居た堪れない。スガさんへのお礼と謝罪もそこそこに自室へ逃げ帰ってきて、布団に潜り込んだ後、今に至る。

「どんな顔して会えばいいんだ…。」

頭を抱えたまま一人呟いても、当然答えは無い。のろのろと起き上がり、支度をすると、台所へと向かった。



武田先生の指示に従いながら、淡々と朝食作りを進めていく。単調な作業をしている間は余計な事を考えずに済むからいい、なんて呑気に構えていられたのは、束の間だった。

「へぇー、手際いいな、名字。」
「ぅわぁっ!?、った!」
「ごめん、大丈夫か!?」

気付かないうちにすぐそばに立っていたスガさんに声をかけられて、驚きに肩が跳ね上がる。その拍子でサラダ用に大根を切っていた包丁で指を切ってしまった。傷口はそれほど深くないようで、僅かに血が滲む指を銜えていると、どこからか持ってきた絆創膏を手にスガさんが戻ってきた。お互い無言のまま、スガさんに手を取られて、その綺麗な手で手際よく傷口に絆創膏が貼られる。その一連の仕草をただ黙って見つめていた。

「これでよし。本当ごめんなぁ。」
「いえ。切ったのは私のミスなので。」

ありがとうございました、と軽く頭を下げてから顔を上げれば、スガさんにじっと見つめられてたじろぐ。

「あ、あの、?」
「あぁ、ごめんごめん。目、腫れてなくて良かったなと思って。」

その一言で昨夜の失態がフラッシュバックする。同時に沸き起こる羞恥心と申し訳なさ。

「昨夜はスミマセンでした…。」
「気にするなって。」

俺としては役得って感じだったし、と笑ったスガさんを見つめ返すと、俺も手伝うよ、とはぐらかされてしまった。それから何もなかったように作業を始めたスガさんにつられるように、私も手を動かし始めた。



スガさんのおかげですっかり平静を取り戻した私は現金だと思う。昨夜の一件を持ち出してニヤニヤ笑った田中とノヤっさんにはきっちり制裁を加えたし、二日目の練習も程なく終えて夕食の準備も一段落ついたところで、スガさん達を呼びに行こうと大部屋へと向かった。

「あれ、何して」

るんですか、と言いかけて、壁際に立っていた大地さんと旭さんにジェスチャーで黙るよう指示される。素直に従って口を噤むと、スガさんの声が聞こえた。俺ら三年には“来年”がないです、と静かに話す声。初めて聞くスガさんの覚悟。思わず涙が滲みかけて慌てて唇を噛み締めて堪えた。私が泣く訳にはいかない。泣きたいのは私じゃない。

鵜養さんが去っていく足音が聞こえる。平静を装って、私を止めようとした大地さんの手をすり抜けて、スガさんの元へ歩み寄った。

「スガさん!」
「!名字、」

呼ぶと、弾かれたようにスガさんが私を振り向いた。夕飯出来ましたよ、と笑いかける。

「今の、聞いてた?」
「スミマセン。」

謝ることで暗に肯定してスガさんを見つめる。
そっか、と小さく笑ってスガさんは俯いた。ゆっくり歩いてその正面に立つと、顔を上げたスガさんと目が合う。困ったようなその顔が何だか苦しそうに見えるのは私の気のせいだろうか。

「さすがの名字も幻滅したかな。」
「多分、」

ははっ、と乾いた笑みを浮かべたスガさんの視線から逃れるように、私は俯いた。

「スガさんは私の好きなんて本気にしてないでしょうし、もしかしたら迷惑にさえ思ってるのかもしれません。」

自ら言葉にすると、首を締められたように苦しくなる。

「いや、そんなことは、」
「でも、」

スガさんの声を遮って顔を上げる。真っ直ぐにその目を見つめる。

「私はスガさんが思うよりずっとちゃんと、スガさんが好きなんです。」

幾度となく冗談とないまぜにして軽々しく口にしてきた“好き”という言葉。告白とか、付き合いたいとかそういうのじゃなくて、今はこの言葉がスガさんを支える一つになればいい、と願いを込めて言葉を紡ぐ。

「だから幻滅なんてしません。スガさんが悩んで考えた決断に幻滅なんか絶対にしません。」

届くだろうか。届いて欲しい。私がたくさんスガさんに支えられて救われてきたように、今度は私が支えたい。全部は無理でも、せめて僅かでも、一部でもいい。私に言える言葉はこれしか無いから。

「名字には敵わないなぁ。」

すっとスガさんの腕が伸びて、抗う間もなくその腕に引き寄せられた。
ぎゅう、と抱き締められる両腕。黒のジャージ越しに感じる温もり。首筋にかかる吐息。心臓がばくばくと早鐘を打つ。

「ありがとう。」

そう言って私を抱き締める腕に力が込められる。おずおずと抱きしめ返すと、首元に顔を埋めていたスガさんが少し笑った気がした。
しばらくしてからスガさんの腕から解放される。
視線がぶつかって、お互い同時に照れたように笑い出した。その後で、スガさんが我に返ったようにはっとして焦り始める。

「ご、ごめん、俺、つい、」
「いえ。“役得”です。」

朝言われた言葉を返して笑えば、スガさんは一瞬目を丸くしたあと、すぐに笑い出した。

「そっか。」
「はい。じゃあ私、他の人達呼んできますね。」

小さく会釈をしてから、ぱたぱたとその場を立ち去る。

まだ心臓の高鳴りはおさまらない。手が体が、スガさんの温もりを匂いを覚えてる。
だけど何よりも、自分の気持ちが届いたことが嬉しかった。




届け、君に
(言える言葉は僅かだけど)