かくん、かくん。目の前で小さく揺れる菅原君の頭。今はお昼も終わった五時限目で、現代文の時間。睡魔に襲われうとうとしているのは、何も目の前の彼だけでは無い。受験生と言っても、眠いものはどうしたって眠いし、春高へ行く、と言ってバレーも勉強も頑張っているのだろう彼が疲れているのも無理は無いと思う。

広くて大きな背中。女の私には無いもの。色白で華奢に見えて、実は筋肉のついた逞しい腕。半袖シャツの袖から見えるその腕に人知れずときめいたのは数知れない。今は肌寒くなってきて、長袖シャツに覆われたその腕を見れないのが少し寂しい。…って、何だか変態みたいな思考になってきたな。いや、もう、この際変態でも何でもいいや。手を伸ばせばすぐそこにあるその背に、肩に、腕に触れてみたいのだ。ましてや抱きしめられたりしたらどんなに幸せなんだろう。…そんなこと起こりうる筈が無いのだけど。私は彼の彼女でも何でも無い。ただのクラスメイト。友達。長い片想いをしている想い人。ただ、それだけ。

未だ舟を漕ぐ菅原君の背中にそっと手を伸ばす。寝ている今なら少しくらい触れても気付かれ無いかもしれない。触れてみるなら今だ、と私の中の悪魔が囁く。

人差し指でとん、と菅原君の背中に触れる。指先から伝わる熱に、それだけで心臓が高鳴る。
ゆっくりと、人差し指を滑らせて文字を綴る。
「がんばれ」。
それが今の私の精一杯だ。

ドキドキする心臓を隠すように、戻した手をぎゅ、と握り締める。それから、ようやくシャーペンを手に取って、すっかり中断していた板書を再開する。
時折ちらり、と目の前の彼を見ても、彼が起きた気配はなくて俯いたまま。気付かれなくてほっとした気持ちと、気付いて欲しかった気持ちとがないまぜになった感情がぐるぐる回る。

暫くして授業の終わりを告げる鐘がなって、ようやく彼の体が起こされる。礼をして席に座る。広げていたノートやら教科書を片付けようとした時、彼が振り向いた。

「名字、さっきさ、」

さっき。その言葉にびくりと肩が揺れた。
気付かれてたのかな。冷や汗が背を伝う。

「な、何?」
「いや、あの、」

怖くて菅原君の顔が見れない。机の上のノート達を片付ける手も止まったまま。

「ありがとう、な。」

バレてた。
驚いて顔を上げると、照れたように笑う彼と目が合った。心臓が煩い。恥ずかしさやら申し訳なさやら、居た堪れなさやらで、顔が熱い。

「それで、さ、さっきの現代文のノート借りていい?」
「え?」
「名字が急にあんなことするから、授業どころじゃ無くなっちゃってさ。」

あはは、と爽やかに笑う彼にますます顔がほてる。あわあわとノートを閉じて彼に差し出す。サンキューと言ってくるりと背を向けた菅原君の背中を見て、ようやくほっと息を吐く。次の授業は何だっけ、化学だっかな。現代文の教科書を片付けて、机の中から化学の教科書を探す。

「あ、そうだ。」

不意に再度振り向いた菅原君に、思わず手に持っていた教科書を落としそうになった。

「どうせならさ、背中に書くより直接言われた方が俺嬉しいな。」
「へっ!?」
「名字の口からちゃんと聞きたい。」

にこにこ笑顔で真っ直ぐに見つめられる。緊張で、あ、とか、う、とか言葉にならない声が漏れる。大した台詞じゃないのに、面と向かっていうとなるとどうしてこうも緊張してしまうんだろう。

「バレーとか忙しくて大変だと思うけど、さ、」
「うん。」
「頑張って、ね。」
「名字も。頑張ろうな。」

さらりと言われて、こくこくと頷くしか出来ない。当の菅原君は満足したのか、また自分の席に向き直ってしまった。その背中を呆然と見つめる。

頑張れ。じゃなくて、頑張ろう。その言葉の選択が菅原君らしくて、やっぱりいいなと思う。
たった一言だけで何だかやる気が出てしまうのは、所謂恋の力、というやつなんだろう。