「名字、起きて。」

聞きなれた優しい声に、重い瞼をゆっくりと開ける。視界いっぱいに映った菅原の顔に思わず悲鳴にも似た声を上げた。

「っひ、す、すが、菅原!?」
「おはよう。」
「お、おはよう、」

つい反射で返事をしたものの、状況が理解出来ずに目を白黒させる。目の前には菅原がいて、明らかに自分の部屋とは違う知らない部屋。横たえていたベッドから起こした体に服を纏っていることに、とりあえず安堵する。

「朝飯作ったけど、どーする?食う?それか先シャワー浴びる?」
「あー、シャワー浴びたい。」

お腹を満たすよりも先に、体についた煙草の匂いや汗を何とかしたいという欲求が上回った。

分かった、と頷いた菅原の後に続いて浴室へと案内される。あるもの自由に使っていいから、と言いおいて浴室から去った菅原の背中を見送ってから、ばさりと服を脱ぎ捨てる。案内される直前に引っ掴んだバッグから取り出した携帯用のメイク落としで化粧を落としてから、浴室へと入ってシャワーを頭から浴びる。そうしてやっと少しずつ昨夜のことを思い出す。

久しぶりに飲もうと誘われて向かった居酒屋で、付き合おうと言われたこと。抱き寄せられたこと。突然のことに戸惑って、梅酒やらカクテルやらをとにかく飲んで、酔った口がぺらぺらと喋ったのは、ずっと隠してきた筈の自分の本音。

高校時代から本当はずっと菅原が好きだった。だけど言えなくて、それどころか他の男を紹介される始末に、恋愛感情は隠すことにした。いつか壊れる不確かな恋愛関係より、永遠の友情を選んだのに、どうして今更になって菅原がそれを壊すの。

一度口をついて出た言葉は止められなくて、ただ柔らかく微笑んで私の話を聞く菅原に、いっそ憎らしささえ覚えた。だけどそれもほんの一瞬で、本当はお互い想いあっていたのに、ずっとズレて恋をしていたことが分かって二人で馬鹿みたいだと笑いあった。お互い好きだったのに、お互いが勝手に諦めて、遠慮してすれ違って、そうしている間に友達のまま気がついたら十年近く経っていたなんて、馬鹿みたい。笑いながら終電がなくなるまで飲んで。
そうして向かった先は菅原が一人暮らししているというマンション。彼の部屋へ上がって、二人でベッドへ倒れ込んだ。

そこから先の記憶がない。どれだけ飲んでも記憶が飛んだことはないのに、今回に限ってその先だけがどうしても思い出せない。先程目を覚ました時、昨日の服のままだったことを思い返して、脳裏を過ぎった一つの推論にまさかと頭を抱える。その推論が正ければ、多分私は女としてありえない暴挙をしでかしたことになる。

シャワーを浴び終えて脱衣所へ出ると、バスタオルと菅原のものだろう部屋着が用意されていた。私が浴びている間に準備してくれたらしい。相変わらずスマートな奴だと一人笑いを零しながら、下着だけは仕方なく元着ていた物を身につけて、遠慮なく用意されていたTシャツとハーフパンツを着て手早く髪を乾かした。

リビングへと戻ると既にテーブルの上に朝食が用意されていた。

「お。おかえり。」
「ただいま。」
「コーヒーでいい?」

うん、と頷いてテーブルの前に腰を下ろす。しばらくして二つのカップを持って戻ってきた菅原からコーヒーを受け取って、二人同時に手を合わせた。今日このあとどうしようか、等と話しながら菅原が用意してくれた朝食を食べすすめる。料理まで上手いなんてどこまでハイスペックな男なんだろう。

朝食を食べ終えて(後片付けはさすがに私がやった)、二人並んでソファーに座りながら食後のコーヒーをすする。それ程狭いソファーではないのに、時折菅原の肩が自分のそれに触れる。

「あのさ、」

まだ半分くらい残っているコーヒーを見つめながら切り出した。菅原は黙って私の言葉を待っている。

「昨夜って、もしかして私、すぐ寝た?」

昨夜のままだった服。途切れた記憶。そこから導き出された推論はそれだった。隣で菅原があっさりと、うんと頷く。願わくば、どうか間違いであって欲しいという私の願いはばっさりと切り捨てられた。カップを両手で掴んだまま項垂れる。

「あー、本当ごめん。ありえないよね、私…。」
「まあ、仕方ないべ。酒も入ってたし疲れてたんだろ。」
「いや、そうかもしれないけどさ、」

仮にも男女が一緒に飲んで、しかもお互い好きって分かって部屋に行ったのに、何もなく寝るとか普通ありえないだろう。子どもじゃあるまいし。少なからず私は期待していたのを覚えているのに。連日のハードワークで疲労が溜まっていたとはいえ、どうしてあのタイミングで早々と寝てしまったのか。昨夜の自分が恨めしい。

「確かに吃驚したけどな、ちょっと目離した隙に名字寝てんだもん。そんな奴初めて見た。」

くつくつと笑う菅原に、私は最早謝ることしか出来ない。スミマセンデシタ、と呟くと突然、菅原に手の中のカップを奪い取られた。それをテーブルに置くと菅原が覆い被さってくる。

「え、」
「じゃあさ、」

ソファーに押し倒されたような体勢になって、見上げた菅原がにこりと笑う。

「昨夜出来なかったこと、していい?」

名字寝ちゃったから俺おあずけ食らったんだよね、と笑う菅原は仕方ないと言った割には根に持っているようで、男の顔をしている。初めて見るその表情に心臓が高鳴る。

「や、ちょ、待って、まだ朝だし、」
「どうでもいいじゃん、時間なんて。」

俺は十年近く我慢してたんだよ。

そう呟いた菅原に唇を、体中の熱を奪われるまで、あと少し。