「ごめん、好きな人ができたの。」

だから別れよう、そう言って背を向けた彼女の後ろ姿を俺はただ手を振って見送った。



「ごめん、遅くなった!」

週末ということもあって賑わう駅前の居酒屋。そのカウンターで一人飲んでいた俺の元に名字がやってきたのは、ちょうど一杯目のビールを飲み干した所だった。走ってきたのか、名字が息を切らしながら再度ごめんね、と謝まる。次いで、久しぶり、と言葉を交わす。

「わざわざ走って来なくても良かったのに。」

空いている左隣に座るよう促しながら言うと、だって久しぶりに折角誘ってくれたのにあんまり待たせるなんて悪いよ、と苦笑いしながら名字が座る。律儀というか他人に気を遣える優しさは出会った頃と変わらない。高校で知り合って以来、社会人になった今でもこうして気兼ねなく付き合える女子は名字だけだ。それでも彼氏、彼女がいる間は互いに二人で会うことを避けていたから、こうして会うのはどれくらいぶりだろうか。俺に彼女が出来たのが三ヶ月程前で、だけど名字が彼氏と別れたと聞いたのも確か同じくらいの時期だったような。

「何飲む?」
「とりあえずビールで。」

メニューを見ようともせず即答した名字に了承して、近くを通った店員さんにビール二つと適当につまみをいくつか注文する。程なくして運ばれてきたビールで乾杯する。

「くはーッ、生き返るー。」

ジョッキ半分程のビールを一気に飲み干して、名字が幸せそうに笑う。何度見ても良い飲みっぷりだなぁ、と感心する。

「仕事忙しいの?」
「まあねー。取引先の都合で一個プロジェクトの納期が早まってさ。」

いっそ踏み倒してやろうかと思ったよ、と枝豆を食べながら苦々しく呟いた名字に、それは不味いだろ、と笑う。名字は分かってるよ、と言ってビールを一口飲んだ。

「だから休日出勤なんてしてたんじゃん。」
「お疲れ。」

何が楽しくて土曜まで仕事しなきゃなんないの、と不貞腐れる名字の肩をぽんぽんと叩く。

「まあまあ、今日はとことん飲んでストレス発散したらいいよ。」

な?、と笑いかけると、名字がちらりとこちらを見た。

「そういう菅原は何で土曜の夜に私と飲んでんの?彼女はどうしたのさ。」

聞かれて返答に詰まる。
いきなり核心つくか、普通。いや、それが核心だと名字は知らないから聞いてきたのだろうけれど。

「別れた。」

一言簡潔に告げると、え、と驚いた顔の名字と目が合った。

「いつ?」
「今日。他に好きなヤツが出来たんだってさ。」

不意に名字がふは、と吹き出した。

「マジか!菅原振る女なんているんだね!」
「そりゃいるよ。」

深刻な顔で慰めるんじゃなくて、あっけらかんと笑い飛ばしてくれる名字の存在が今はありがたい。からからと笑う名字につられて俺も小さく笑みが溢れる。

「だって菅原って、顔良し、頭よし、運動神経良し、で、背も高いし、優しいし、いい男じゃない。こんなハイスペックな男、私だったら絶対手放さないのになー。」
「いや、名字が思うような男じゃないって、俺。」
「それは菅原が気づいてないだけだって。菅原と付き合いたいって人、多いと思うけど。」

ストレートに褒め倒されて、照れくさくなる。昔からそうだ。名字はいつだって何の衒いもなく俺を褒めてくれるし、認めてくれて励ましてくれる。俺のことなんて全然対象外だから言えるのかな、と人知れず凹んだ回数は両手じゃ足りない。

「じゃあ、あれだ、寂しい独り者同士、今日はとことん飲もうじゃないの!」

ジョッキを持ち上げて本日二度目の乾杯をする。一回目の乾杯と同じようにジョッキを合わせたあと、名字は残っていたビールを一気に飲み干した。店員さんを呼んで二杯目をおかわりする名字を横目で見ながら、俺はまた笑った。



「俺と仕事とどっちが大事なんだよ!?、とか言われてもさ、そんなの比べようもないじゃん?」

そう名字が一人、ごちり始めたのは、もう何杯目かも分からないグラスを空けた頃だった。今は梅酒のロックを片手にちびちびと飲んでいる。

「こっちだって好きで忙しくしてる訳じゃないのにさ、それを責められて、挙句に俺がいなくてもお前は平気なんだろ、って。」

そんな訳ないじゃない。呟いた名字の目に涙が滲む。

今日別れた元彼女と俺が付き合い始めた頃、大学時代の男友達からかかってきた電話での会話を思い出す。
お前の紹介で付き合い始めたから、何か悪いんだけどさ、と切り出した彼の口から次に出た言葉は、名字と別れた、という報告だった。仕事仕事で忙しく会えない彼女に嫌気がさした、と。別れを切り出した時も泣きもしなかった、彼女には俺は必要無いのだ、と言った友人に、そんな訳ないだろ、と憤りかけて堪えたのを覚えている。

「私だって会えないと寂しかったし、会いたかったよ。だけど恋愛のために仕事疎かにするなんて出来なかったし、したくなかった。だからずっと我慢してたのに。」

別れ話をされて泣かなかったのは、名字なりの強がりだ。会いたい気持ちも寂しさも、多分一人で我慢していたのだろう。それを素直に言えば良かったのに、出来なかったのは、彼に言われて応えられない自分を省みていたからだろう。

「ね、名字。」

目尻に滲んだ涙を拭いながらこちらを振り向いた名字ににっこりと笑いかける。

「俺たちさ、付き合おっか。」
「は?」
「二人揃って一人ぼっちだし、いいと思わない?」
「え、と、」

余程驚いてるのか、それとも酔いの回った頭ではまだ処理できていないのか、ぽかんと俺を見つめる名字が何だか可笑しくてくつくつと笑う。

「なんてね、じょう、」

冗談、と笑い飛ばそうとしてふと気付く。名字の顔が赤く染まっていることに。耳まで赤くなっているのだから、お酒のせいではないだろう。そもそも、名字は飲んでも顔に出ない体質なのはとうに知っている。

何でそんな可愛い顔するかな。今まで散々対象外みたいな軽口ばかり言ってきたくせに。
そんな顔されたら欲が出るだろ。本当に彼女が欲しくなってしまう。今更愛情だなんて、好きだなんて言うつもり無かったのに、伝えて自分のものにしたくなる。かけがえのない友達、それで良かった筈なのに。

「菅原?」

赤い顔の名字に顔を覗き込まれる。思わずその細い肩を抱き寄せた。

「っちょ、菅原!?」

腕の中でもがく彼女を閉じ込めるように、ぎゅ、と抱きしめる。
真っ直ぐにその目で見つめらたら、自分の不覚な感情を見透かされるような気がした。
諦めたのか、大人しくなった名字を離さなければいけないと分かってるのに、抱きしめる腕を解くことが出来ない。

「菅原?どうしたの?」
「ねぇ、名字、」

俺たち、そろそろ恋をしようか。
戻れない恋をしよう。





Kinki kids「black joke」より