とりあえず入って。そう促されて入ったスガさんの部屋は、何一つとして変わってなんかいなかった。有り合わせの物で悪いけど、と言いながら作ってくれたスガさんの手料理を二人とも無言で食べて、一緒に片付けた。スガさんがいれてくれたコーヒーをゆっくりとすする。あの日は、結局口をつけずに飛び出してきてしまったんだった、とぼんやり思い出す。

「いつから待ってたの?」

先に口を開いたのはスガさんだった。正座で座る私の正面に、私と向き合うようにしてあぐらで座っている。

「え、っと、六時過ぎ、くらい、から?」

はあああ、とスガさんが盛大なため息を吐いた。眉間にシワが寄っている。怒らせてしまっただろうか。…待ってたら、駄目だったのかな。迷惑だったのだろうか。

「受験生なのに風邪ひいたりしたらどうするの。」
「あ、それなら、」

今日合格しました。

そう伝えるとスガさんの目が大きく見開かれた。それから安堵したようにゆっくりと息を吐き出した。ふわりとスガさんが笑う。

「良かった。合格おめでとう。それから、卒業おめでとう。」
「ありがとうございます。」

スガさんにおめでとう、と言ってもらえて、やっと少しだけ肩の荷がおりた気がした。

「それを伝えるためにずっと待ってたの?」

問われてびくりと肩が揺れた。両手で握っていたコーヒーの入ったマグカップを、テーブルの上に置く。コトリ、と静かに音を立てた。

「あ、の、」

俯いて、正座をした膝の上で両手を握り締める。
あ、駄目だ。俯くと泣きそうになる。今日は泣きたくない。
ぐ、と唇を噛み締めて顔を上げた。

「ごめんなさい。嫌いなんて言ってごめんなさい。勝手なこと言って、それで、」

泣きたくなんてなかったのに、泣くつもりなんてなかったのに、私の意思を無視して涙が一筋、頬を伝った。それを慌てて手の甲で拭う。

「うん。嫌いになるって言われたのは傷ついた。でも、先に名前ちゃんを傷つけてたのは俺の方だったんだね。」

ごめん。そう言ってあぐらから正座に座り直したスガさんが頭を下げた。その姿を呆然と見つめる。
どうしてスガさんが謝るんですか。スガさんは何も、

「篠宮先生とは何も無いよ。あの日保育園の先生たちと飲み会だったんだけど、篠宮先生が酷く酔っちゃってたからマンションへ送っていったんだ。玄関まで送り届けて、あとは旦那さんに任せて俺はすぐに帰ったよ。」

何だ。そうだったんだ。何もなかったんだ。良かった。完全な私の思い込みだったのか。勝手に勘違いして突っ走った自分が恥ずかしい。

「って、え?旦那?」
「篠宮先生、結婚してるよ。」

知らなかった?、そう言って首を傾げたスガさんに、ぶんぶんと首を左右に振って意思表示をしてみせる。
マジか。知らなかった。あれ、じゃあ、スガさんのこと好きって言ったのは何だったんだ?まさか浮気か?

「だから篠宮先生とは本当に何もないんだ。こればかりは信じてとしか言い様が無いんだけど。」

そう静かに話すスガさんの目はいつになく真っ直ぐで真剣で、疑うなんて出来なかった。いつだって優しくて真面目で真っ直ぐなスガさんがそんな嘘をつくとは思えない。篠宮先生のことは、後日きちんと彼女に聞けばいい。もしかしたら私がからかわれたのかもしれない。よくよく考えてみれば、好きって言ったって、それが恋愛感情だとは一言も言われてないし(あの時はいっぱいいっぱいで、そう思い込んでしまったけれど)、友達として、同僚としての好きかもしれない。…そう考え始めると、いよいよ篠宮先生に謀られたような気がしてきた。
あ、何かちょっとムカついてきた。

「それから。どうして触れてくれないのかって、聞いたよね。」

スガさんの言葉に、ゆっくりと沸騰し始めてきた頭が一気に冷めた。すう、と全身から血の気が引いていくような感じを覚える。

どうしよう。聞くのが怖い。

この期に及んで逃げようとする自分を内心で叱咤する。

逃げるな。そうやって何回逃げて後悔してきたんだ。ここでまた逃げたら何も変わらない。話を聞くためにここへ来たんじゃないのか。

「名前ちゃんに触れられなかったのは、俺の身勝手な理由なんだ。それで名前ちゃんが傷ついてるなんて気付けなかった。本当にごめん。」

そう言って再び頭を下げたスガさんの姿を、私はただ見つめることしか出来なかった。