筆記用具に赤本、ノートで占領しているローテーブルの片隅に、ことり、とマグカップが置かれた。湯気の立つそれをちらりと一瞥する。

「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」

鼻腔をくすぐるコーヒーの香りに、一瞬少し休憩しようかなと考えてすぐにやめる。まだ問題の途中だし、一息入れるのはせめてこの問題を解き終わってからにしよう。それに、今は勉強に集中していたい。一瞬でも思考に隙を作りたくない。作ってしまえば、きっと私は抗えなくなってしまう。
コーヒーを出してくれたスガさんは、私の隣で黙々と本を読んでいる。私がスガさんの部屋に訪れる時はいつもそうだ。テーブルを私が一人で占領して、スガさんはその傍らで本を読み耽る。それがいつの間にか当たり前になってしまった。

ガリガリとノートに答えを書き込んでいく。数学にしろ、物理にしろ、化学にしろ、答えに曖昧性が無いから、理系科目は好きだ。思考が、解を導くそのプロセスはいつだって論理的。そこには曖昧さも、感情も存在しない。
そう。感情は時として論理的思考の邪魔をする。

問題を解き終えて、手が止まる。隣でコーヒーをすすりながら本を読み続けるスガさんを見やる。熱いコーヒーを火傷しないように冷ます唇。その形の良い唇に最後に触れたのはいつだっただろう。その唇が私の名前を呼んで、重ねたのはもう随分前のことのような気がする。

その唇で、篠宮先生に触れたのだろうか。名前を呼んだのだろうか。
ねえ、スガさん。昨夜は何をしてたんですか。どうして篠宮先生と一緒だったんですか。あの後どうしたんですか。ナニか、あったんですか。

「名前ちゃん?」

どうしたの?と私に尋ねるその唇をじっと見つめる。

「キス、したいです。」

私を見ていた筈のスガさんの目が、ふい、と逸らされる。手元の本へと落ちた視線。

「…後でね。」
「後っていつですか。」
「え?」

頭の中で警鐘が鳴る。駄目。これ以上口を開いては駄目。戻れなくなる。

「いつも後で後でって、私が強請ったって全然してくれないじゃないですか。今だって私の方見もしないで、」
「名前ちゃん?」
「私はもういらないですか。私より篠宮先生がいいんですか。」
「どうしてそこで篠宮先生が出てくるの?」

ああ、ほら。もう思考が、言ってることがぐちゃぐちゃじゃない。論理性なんて欠片も存在しない。だから嫌だったのに。問題を解く思考を止めれば、そこに隙を作れば、論理も何も無い、ただ感情に任せた支離滅裂な思考、主張に引き摺りこまれる。
それは、間違いなく他人を、スガさんを傷付ける。

「私、昨日見たんです。スガさんが篠宮先生とマンションの中に入っていく所。」
「それは、」
「篠宮先生とシたんですか。そりゃそうですよね、背ばっかり無駄に高くて、胸だってなくて、筋肉ばかりで女らしさなんて全然無いお子様の私なんかより、綺麗で大人で色気のある篠宮先生の方がいいですよね。」
「待って、」
「どうして触ってくれないんですか。私はスガさんに触りたいのに。触って欲しいのに。どうして何もしてくれないんですか。」
「落ち着いて、名前ちゃん、」

伸ばされたスガさんの手を払い除けた。

「触らないで下さい!」

触れて欲しいって言っておきながら、次の瞬間には触らないで、なんて。滅茶苦茶な言い分にも程がある。矛盾も大概にするべきだ。

ぼろぼろと波がこぼれ落ちる。

泣くな。ここで泣くなんて最低だ。

「…帰ります。」

ばさばさと乱暴にテーブルの上に出していた勉強道具をカバンに放り込んで立ち上がる。コートを引っ掴んでスガさんの家を飛び出した。雪で上手く走れない道を何度も転びそうになりながら必死で走る。

「待って、名前ちゃん!」
「来ないで!」

鋭く叫ぶ。そうすることで拒絶した。

「来ないで下さい。来たら嫌いになります。」

嘘。嫌いになんてなれないくせに。私の口はさっきから嘘ばかりだ。感情に全ての制御系を支配されて、そこには理性も何も無い。
だから感情は時として邪魔なんだ。無くなってしまえばいいのにとさえ思う。感情が無ければ、こんな風に一方的に言葉をぶつけて、逃げ出すなんてことしなくて住むのに。

残されたスガさんがどんな顔で、どんな気持ちでそこにいたのかなんて、私は知らない。