「なーんか忘れてる気がするんだよなあ。」

雪の積もった白い道を歩きながら、ぽつりと一人呟く。
まだまだ先だと思っていた受験はいつの間にか終盤に差し掛かっていて、気がつけばセンター試験も一ヶ月も前に終わってしまった。最後のIHも夢叶わず敗退して、泣きながら引退した日が遠く感じる。たった半年ほど前のことなのに。ずっと引き摺ると思っていた最後の夏の終わりは、自分が思うよりもずっとあっさりと過去の記憶と化した。悔いがなかった訳じゃない。だけどそれ以上に私はそれまでの時間を全力でバレーに注いできたし、そのことに満足していたのかもしれない。
バレーのない生活なんて考えられないと思っていたけれど、案外そうでもなかった。離れたら離れたで、人間は都度その環境に順応していくものなのだ。

ずっと机に齧り付いているのにもすっかり慣れたけれど、少し息抜きをしたくて家を出た。幾分か距離はあるが、散歩ついでに駅の方まで歩いてコンビニで夜食でも買って帰ってこようと思い立って出てきた所までは良かった。しかし、春は近いと言えども、身を切るような寒さにやっぱりもっと近くの坂ノ下とかにすればよかったかな、と一瞬後悔もした。だけどどのみちこの時間じゃ坂ノ下はもう閉まっているだろうし、歩いていれば段々体は温まってくるもので、ぼんやりとしながら夜道を歩く。

忘れているもの。
ふと過ぎった自分の言葉を反芻してみる。何かを忘れている。勉強とか受験のことじゃなくて、もっと別の何か。脅威にも似た漠然とした嫌な感じ。何だろう。考えても出ない答えに不快感を覚える。こんな風に答えの出ない何かに直面するのは、随分久しぶりのような気がする。受験のことでぴりぴりと神経をすり減らすことはあっても、比較的穏やかな生活を送っていたのに。

嫌だ。不快感ばかりが募る。

不意に視界の端に飛び込んできた何かに、思わず足を止めた。

車道を挟んだ反対側の歩道を歩く久しぶりに見るスガさんの姿。楽し気にその隣を歩く女の人。不意に、雪で足を滑らせたのか、バランスを崩した彼女の体を咄嗟にスガさんが支える。スガさんの肩越しにぱちり、とその女性と目が合う。一瞬驚いたように目を見開いた後、彼女がにこりと笑った。そうして道路沿いにあるマンションの中へと二人揃って消えていく。

ああ、そうか。思い出した。彼女、篠宮先生の存在だ。時折保育園で見かける以外に彼女との接点は無かったから、すっかり忘れていた。
初めて外で会った時だって感じていたのに。どう見たって似ても似つかないのに、分かっていてわざと弟、と間違えた人。友達とか知り合いとかじゃなくて、兄弟と間違えられたことに酷く嫌悪したことを今更になって思い出す。
加えてさっきの笑み。確実に私と目が合っていた。私と分かっていて、彼女は見せつけるように笑った。ついさっき見たシーンが頭に焼き付いて離れない。事故だって分かってる。分かってるけど、それでもスガさんに触れたあの手が許せなかった。本当は触らないで、って叫びたかった。今だって、待ってって、スガさん、って名前を呼んでその背を追いかけたい。でも追いかけるのが怖い。臆病な自分が邪魔をする。

もし来るなって言われたら。いらないって拒絶されたら。想像するだけで足が竦む。

ああ、もう嫌だ。