約束は、私が思っていたよりもずっと早いタイミングで果たされた。

「送ってくれてありがとうございました。」

美味しいパスタをご馳走になって、家まで送ってくれたスガさんの車から降りようとシートベルトを外す。
辺りはすっかり暗くなっていて、外を歩く人も見当たらない。

「あ、ちょっと待って。」

ドアを開けようとした所をスガさんに引き止められて、振り向く。いつの間にかシートベルトを外していたスガさんが少し身じろぎをしたと思った次の瞬間には、肩を引き寄せられて、抱きしめられた。

「スガさん?」
「約束。」
「え?」

短く呟いた言葉の意図が分からなくて、聞き返すと、抱きしめられていた腕が離れて、代わりにスガさんの大きな右手が私の頬に触れた。吐息がかかるほどの至近距離で見つめられて、全身が熱くなる。

「いい?」

この状況で何を、とはさすがに聞けなくて、だけど頷くのも何だか恥ずかしいような気がして、ただ黙って暗がりに浮かぶスガさんの整った顔を見つめる。

「沈黙は肯定ととるよ。」

そう言って悪戯っぽく笑ったと思ったら、すぐに唇にスガさんのそれが触れた。一瞬だけ触れて、離れる。言葉など忘れてしまったみたいに、ただ見つめるだけしか出来ない私の唇がもう一度塞がれる。啄むように、何度も角度を変えながら口付けられる。スガさんに触れられている頬が、支えるように添えられている後頭部が熱い。その手の感触までもが愛おしい。ただ唇を重ねるだけの行為の筈が、たまらなく気持ちよくて幸せだと思う。

どれだけそうしていたのか、触れていた唇がゆっくりと離れて抱きしめられた。ぎゅう、と抱きしめてくれるスガさんに応えるように、おずおずと伸ばした手で抱きしめ返してみる。服の上からでも分かる、見た目以上に厚い体。私とは違う、固くて男の人の体。その温かさに幸せがこみ上げて、頬が緩む。

「…ふふ、」
「名前ちゃん?」
「いえ、幸せだなあって。」
「うん、俺も幸せ。」

もう一度ぎゅ、と抱きしめてからスガさんが離れる。寂しさを感じながらも、それを押し殺して私もスガさんの背にまわしていた腕を緩めた。

「約束、守れたかな?」
「はい。」

笑顔で頷き返すと、スガさんの顔が嬉しそうに綻ぶ。よかった、と呟いたスガさんにくしゃりと髪を撫でられて、目を細める。

「じゃあ、またね。練習頑張って。」
「はい。頑張ります。」

また連絡する、と言ってくれたスガさんに手を振って今度こそドアを開けて車を降りる。ゆっくりと発進したスガさんの車を手を振って見送った。



部屋に戻るなり、勢いよくベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。枕に顔を埋めて声には出さずじたばたと暴れる。先ほどのキスが何度も何度も、脳内にリフレインする。温もりが、柔らかさがまだ唇に残っているような気がする。頬や後頭部に触れていた手の感触や暖かさだって。
思い出すだけで幸せで少し恥ずかしくて、でもたまらなく嬉しくて、ニヤニヤが止まらない。キスって本来こんなにも幸せで嬉しいものなのだ、と初めて知った。たった一回しかないキスの記憶は、悲しいキスだった。だけど、二回目のキスは言葉にならないほど幸せ。

ただ互いの唇を重ねるだけの行為。そう思っていたのに、こんなにも幸せになったり、時には悲しくなるなんて少し前までの私は知らなかった。スガさんと出会って、恋に落ちて、少しずつ、でも確実に広がっていく私の世界。目の前に広がる未知の世界に、不安や怯えが無い訳じゃない。だけど、スガさんと一緒なら、進んでいけるような、歩いていけるようなそんな気がするのはどうしてだろう。
これが恋の力、ってヤツなのかな。