とっぷりと日が暮れた空の下を全力疾走する。朝からの練習でへとへとになっているはずなのに、スガさんに会えるというだけでまだ力が出るのだから、恋って恐ろしいと思う。
憂鬱だったテストは昨日で終わって、テスト中は休みだった部活も、昨日の午後から再開された。土曜日の今日は朝からがっつり練習があったし、明日もまた朝から練習だけど、それでも、僅かでも会いたいと懇願したのは、数日前。夕飯を食べに行こう、と誘ってくれたスガさんに二つ返事で頷いて今日に至る訳で。家に迎えに来てくれる、と言ってくれたスガさんと約束の時間まで残された時間はそう多くはない。何とかしてシャワーを浴びて、女の子らしい格好は無理としても(そもそもそんな服を持っていないし)、汗臭いジャージ姿だけは回避すべく家までの道のりをひた走る。

家に帰るなり風呂場に飛び込んで、乾ききらない髪のまま、黒のタンクトップにジーンズという可愛らしさなどない出で立ちに着替えたその時、ケータイが鳴った。「着いたよ。」という簡潔なメッセージを確認して、用意していた白のパーカーを羽織る。財布とケータイをパーカーのポケットに突っ込んで、家を飛び出す。

外に出ると、車にもたれて立つスガさんと目が合って、手を振ってくれる。それだけで嬉しくて顔が綻んでしまう。緩みきった顔のまま駆け寄ると、どうぞ、と助手席のドアを開けてくれる。まるで紳士のような、自分が女の子みたいな振る舞いに、心臓がドキリ、と跳ねる。ドアを閉めて運転席に乗り込んだスガさんの一連の流れをぼうっと眺めていると、スガさんとまた目が合う。

「ちゃんとシートベルトしてね。」

言われて慌ててシートベルトをすると、スガさんがくすくすと笑う。不思議に思って振り向く。す、と伸ばされたスガさんの右手が私の短い髪に触れる。

「そんなに急いで来なくても良かったのに。」
「え?」
「髪少し湿ってる。」

そんなに早く会いたかった?と笑うスガさんの顔は何だか悪戯っこみたいだ。赤くなった顔を隠すことも出来ないまま俯いて頷くと、かわいい、と言われて頭を撫でられる。

「風邪、ひかないようにな。」

スガさんの手が離れて、エンジンがかかる。ゆっくりと走り始めた車のハンドルを操作するスガさんの横顔を、その手を私はただ眺めていた。





くるくるとフォークにパスタの麺を巻き付けて口に運ぶ。クリームたっぷりのソースが絡んで美味しい。頬を綻ばせながら、テーブルの向かいに座るスガさんを見てみる。形の良い口の中へと消えていくパスタをぼんやりと眺める。口元についたソースをぺろりと舐めた舌が何だかやらしく見えて、ぱ、と顔をそらす。耳に響く心臓の音。一人でドキドキしながら、それでも目をそらせなくて、もう一度スガさんを盗み見る。目元の泣きぼくろが色っぽい。唇だって形が良くて綺麗で、それでいて柔らかかった。

…ん?柔らかかった?って、あれ、何で私そんなこと。

「あ。」
「どうしたの?」

思い出した。私のファーストキスはあの日のスガさんとのキスだったのだ。漠然と思い描いていたロマンチックなものとも違う、甘いものでもなく、ただ痛いだけのキス。今でも思い出すと苦しくて、痛い思い出しかない悲しいキス。あんなに苦しかったのに、どうして今まで忘れていたんだろう。

「ファーストキスってやり直しとか出来るんですかね?」
「え?」

真顔で尋ねると、スガさんはきょとんと目を丸くした。

「何かあったの?」
「一方的にされて挙句謝られました。」

一瞬間を置いて、スガさんの顔が徐々に青ざめていく。パスタを食べていた筈の手は完全にストップしている。

「…え、と、それって、もしかして…、」
「スガさんでした。」

はっきり言うと、スガさんは俯いて頭を抱えてしまった。あー、やっぱりそうか、うわ、やっちゃったな、とぶつぶつ呟くスガさんを一瞥してから、パスタを一口食べる。

「ついでに言えば初恋なんですけどね。」
「え?」

何気なく言えば、驚いたようにスガさんが顔を上げた。青くなったり、驚いたり、今日のスガさんはいつになく忙しいなあとぼんやり思う。いや、そうさせているのは私か。

「名前ちゃん、今まで何してたの?」
「バレーボール追いかけてましたが、何か?」

また一口、パスタを口に運ぶ。スガさんは再度頭を抱えしまった。ああ、うん、そうだよね、ずっとバレー一筋だったんだよね、そりゃそうか。一人呟いていたスガさんが、ば、と顔を上げたと思ったら、そのまま勢いよく頭を下げた。

「ごめん、名前ちゃん!」
「…それは何に対しての謝罪ですか?」
「ファーストキスを嫌な思い出にさせちゃったこと、かな。」
「じゃあ、スガさんが塗り替えて下さい。」

ファーストキスは消えないけど、それならせめて二回目のキスは幸せなのがいい。初めてを忘れられるような、優しい気持ちになれるのがいい。

「分かった。」
「約束、ですよ。」

右手の小指を差し出す。子供じみていると思われるかもしれないけど、何となくそうしたくなってしまった。

「約束。」

優しく微笑んだスガさんの小指が私の小指に絡められる。

「嘘ついたら針千本飲ーます。」

双子と指切りを交わすように歌って、指を離す。どちらからともなく二人で笑い出した。

消せない記憶なら、新しく作っていけばいい。そう思えるのは、少しは私も成長した証かな。