「あれ?スガくん?」

自分ではない女の人の声でスガせんせいが呼ばれたのは、お口直しに、と頼んだ杏仁豆腐が運ばれてきたそのすぐあとだった。
声のした方を見上げると、私達の席の横に立つ綺麗な女の人。

「こんな所で会うなんて偶然ね。」
「そうですね。」
「最近スガくん付き合い悪いから寂しかったのよ。」
「すみません、バレーとかで忙しくて。」
「また今度の飲み会には是非参加してよね。」
「はい。」

ふくよかな胸と、その胸まで伸びたストレートの長いブラウンの髪。くびれた腰。ピンヒールのパンプスを履きこなすすらりと伸びた白い足。バッチリメイクの施された大人の女性を思わせる顔立ち。自分には持ち合わせていないその全てが羨ましい。
こちらは?と私を振り向いた女性と目が合う。正面から見るともっと綺麗で、大人の女性ってこんな感じなのか、と妙に感心してしまう。いつか自分も歳を重ねたこんな風になれるのだろうか。そうしたらもっとスガせんせいと釣り合うようになるのだろうか。

というか、この人何処かで。

「弟さん?」

その赤い唇から発せられた言葉に、思わず眉を顰めた。
男に間違われるのなんて慣れているけれど。確かに今の格好じゃ尚更そうなのかもしれないけれど。何だろう。すごく嫌な感じ。単純に間違われただけじゃなくて、皮肉を含んでいるようなそんな感じだ。当てにならない直感が囁く。

ああ、そうか、思い出した。この女性、からすの保育園の先生だ。名前は何だっただろう。

「あ、いや、」

言いかけたスガせんせいの言葉を遮るように、黙って立ち上がる。ガタ、と椅子が音を立てる。
ヒールを履いていても、実際に立つと私よりは幾分か低い女性の顔を覗きこんで、彼女の長い髪に触れる。驚いているのか、戸惑っているのか、はたまた両方か、ただ黙って私を見つめている彼女の髪を一束掬いとる。僅かに染まった頬。それを見て私はにっこりと笑みを浮かべる。

「毛先が少し傷んでますね。肌も少し荒れているようですし。今日は早めに帰ってゆっくり休んだら如何ですか?」

いつも女の子を口説くように、声のトーンを落として囁く。

「折角の美人が台無しですよ?オネエサン?」
「っ、」

朱が指した頬に満足して彼女から笑顔のまま離れる。あっけらかんとした口調で次なる言葉を口にする。

「なーんて、ドキっとしちゃいました?スミマセン、私よく間違われるんですけど、こう見えて女なんです。」
「え?」

本気で勘違いしていたようで、さっきまでの恍惚とした表情とは打って変わって、ぽかんと私を見つめる女性がおかしい。それを表情に出さないように、代わりに屈託の無い笑みを浮かべる。

「今度から間違えるならせめて「妹」にして下さいね。篠宮先生?」
「え?」

訳が分からないといった表情で私とスガせんせいを交互に見つめる女性、篠宮先生を見て満足した私はスガせんせいに微笑み返してバトンタッチする。呆れ顔のスガせんせいがゆっくりと口を開く。

「彼女、名字兄弟のお姉さんなんです。」
「えっ!?あのイケメンて噂の?」
「噂になってるんですか、私。」

それは知らなかった、とスガせんせいの顔を見ると、名前ちゃんは綺麗な顔立ちだから、と教えてくれた。イケメン、と言わない辺り、優しいというか気遣いが出来る人だと改めて思う。

「それから、名前ちゃんはもう分かってるみたいだけど、こちらは篠宮さん。俺の同僚。」

紹介されて、ぺこりと頭を下げる。初めまして、いつも弟がお世話になっています、と社交辞令を述べる。対して篠宮先生は動揺を隠しきれないのか、私の顔を凝視したまま、ああ、ええ、こちらこそ、とぎこちなく返事をした。

「あ、じゃあ、私はこれで。またね、スガくん。」
「はい。また。」

スガせんせいに小さく手を振って踵を返した篠宮先生に会釈をして、その背を見送る。カツカツ、とヒールの音が響く。篠宮先生の背中が見えなくなってからようやく私は椅子に座り直した。
食べるタイミングを失ってしまっていた杏仁豆腐に手を伸ばす。

「さっきは驚いたよ。まさか名前ちゃんがあんなことするなんて。」

スプーンで掬った杏仁豆腐を一口食べる。口の中に広がる杏の香りと程よい甘さに顔が綻ぶ。

「そうですか?学校じゃいつもあんな感じですよ?」
「え?そうなの?」
「女の子限定ですけどね。」

また一口、口に運ぶ。スガせんせいは驚いた顔で私を見ている。

「ほら、私こんな見た目なんで。昔からどうも女の子にモテるみたいなんですよ。」

いませんでした?女子にモテる女の子って、そう聞き返せば、そういえばいたようないなかったような、と曖昧な返事が返ってきた。そうか、名前ちゃんは女の子に人気なのか、そうだよな、いつもあんな感じってそりゃ人気あるかも、ああでも何か複雑、と何やらぶつぶつ呟くスガせんせいを眺めながら、杏仁豆腐を食べ進める。

「スガせんせいだって、」

あっという間に食べ終わった杏仁豆腐の入っていた器をテーブルに置く。

「スガせんせいだって人気あるんじゃないですか?保育園の先生たちに。」

女の人が多いんでしょう?と聞けば、スガせんせいは一瞬目を丸くしたあと、ないない、と笑った。

「俺のことなんて皆眼中にないよ。」
「そんなの、」

分からないじゃないですか、さっきの篠宮先生だって、と言いかけて口を噤んだ。
駄目だ。これは言っちゃ駄目だ。だってこんなのただの嫉妬だ。ちょっと可愛がってもらってるだけの高校生の私が言っていい台詞じゃない。彼女ならまだしも、そんなこと言える立ち位置に私はいない。

「名前ちゃん?」

ああ、もう、格好悪い。情けない。どうしてこんなに子どもなの。

「…いえ、何でも無いです。」

微笑んで頭を振る。そろそろ帰りましょうか、と立ち上がると、スガせんせいも立ち上がって伝票を手にする。

「あの、スガせんせい、お会計、」
「いいよ。俺の奢り。」

にっこり笑って言われて、ご馳走様です、とお礼を言う。今日は結局こうして全部スガせんせいに出してもらってしまった。これが社会人と高校生の差なのかな、とぼんやりと考える。

私がもっと大人だったら。こんな風に子どもじゃなかったら。もっと、もう少し、何かが違っていたのだろうか。