練習で汗をかいたシャツとショートパンツを脱いでくしゃくしゃのままバッグの中へ詰め込む。新しいシャツに着替えて、その上に部活用の上下ジャージを着た。四月とはいえ日が暮れるとまだ結構寒い。手袋をはめて、マフラーをぐるぐると巻き付けてから、ショルダーバッグを肩にかける。部室の時計を見上げると、現在18時50分。

「お疲れ様でした!お先です!」

一声かけてから、慌ただしく部室を飛び出す。弟たちを預けている保育園までは、歩いて約15分。延長保育の時間は19時まで。つまり、残された時間はあと10分。走ればギリギリ間に合うだろうか。微妙なラインだ。練習でへとへとの体でさらに全力疾走なんて、冗談じゃない。内心で悪態をついても仕方がない。今はとにかく走れ。そう言い聞かせてひたすらに走る。練習を終えて一旦は冷えた体が再び温まってきて、だんだん暑くなってくる。巻いていたマフラーを走りながらほどいて、右手に握り締めたまま、保育園への道をひた走る。

新年度になって年中さんへとなった弟たちの新しい教室の場所は、一階の一番右だと言っていた昨夜の母親の言葉を思い出す。からすの保育園。ようやく見えたその門をくぐって、弟たちがいる筈の教室を目指す。すでに暗くなった他の教室と違って、その部屋だけが煌々と明かりがついている。ガラガラとその扉を開けるやいなや、いきなり小さいのが足に飛びついてきた。

「なまえちゃん!」

ぜい、はあ、と肩で息をしながら、飛びついてきた小さいの、弟の遥翔の頭を撫でてやる。膝に手をついて、体に酸素を送り込もうと呼吸を繰り返す。

「…はぁっ、はぁ、…ごめ、おそく、なった、」

息をきらしながら、教室の中を伺うと、薄いブラウンのエプロンをつけた長身の若い男の人と目があった。そういえば、今年の担任の先生はイケメンだと昨夜母さんが年甲斐もなくはしゃいでいたような。

「おかえりなさい。」

私と遥翔の元へと近付いてきた先生がにっこりと笑う。

「すみませ、おそく、なりました、あの、」
「大丈夫?」

心配そうに顔を覗きこまれる。あ、近くで見ると本当にイケメンだ。綺麗な顔。目もとのほくろが色っぽい。

大丈夫です、と返して呼吸を整える。
違う違う。今は初対面のイケメン先生に見惚れている場合じゃないだろ。しっかりしろ、自分。

「名字遥翔と隼翔の姉です。遅くなってスミマセン。」
「なまえちゃんていうんだよ!」
「ちょ、こら、遥翔、」

勝手に口を挟んできた遥翔を諌める。目の前のイケメン先生は、そっか、と笑った。

「初めまして。担任の菅原です。よろしくね。」

そう言って笑った先生の笑顔に、心臓がどき、と小さく跳ねた。あれ、なんだ、今の。何か今、心臓が。

「こちらこそよろしくお願いします。」

ぺこりと頭を下げると、先生も軽く会釈をしてくれた。頭を下げて、私の右足付近に立っていた遥翔が視界に映った。そこでようやく違和感に気が付いた。あれ、ちびが一匹足りない。私の弟は双子で、二人とも同じクラスだと聞いていたのに。

「遥翔、隼翔は?」
「あ、今寝ちゃってるんだ。」

答えてくれたのは、遥翔ではなく、先生だった。教室の中を振り返った視線の先には、確かにタオルケットを被って寝ている隼翔がいた。他の園児はもういないらしい。

「どうしよう?起こした方がいい?」

先生に聞かれて、いえ、と首を振る。

「抱っこして帰ります。」

そう告げて、遥翔に荷物を取ってくるよう促す。はーい、と素直に頷いて教室の中へ入っていった遥翔の後を追って、靴を脱いで中に入る。先生が持ってきてくれた隼翔の荷物を受け取って、起こさないように隼翔の小さな手に手袋をはめて上着を着せる。

「なまえちゃん、かえろう!」

駆け寄ってきた遥翔の頭を撫でてから、じゃあ帰ろうか、と言う。うん、と元気に頷いた遥翔に頷き返して、寝ている隼翔を抱っこしようとして、自分の右手に握られたままだったマフラーに気づく。

「遥翔、ちょっとこれ持ってて。」

マフラーを遥翔に一旦預けてから、隼翔を抱っこする。温かな重みがずし、と腕に伝わる。先生から隼翔のカバンを受け取って、右腕に通す。

「じゃあ、どうもありがとうございました。」
「スガせんせい、またね!」
「またね。」

そうか、ちびたちはスガせんせい、と呼ぶのか。何かいいなぁ、とぼんやりと考えながら会釈をすると、先生は会釈をしてから手を振ってくれた。
遥翔が靴を履くのを見ながら、自分の靴を履く。

「あ、なまえちゃん!」
「ん?どした?」
「はやとの靴どうするの?」
「私が持ってくから取って。」

そう言って屈みながら手を伸ばす。抱っこした状態でこの体勢はなかなか辛いものがあるが、仕方ない。遥翔から隼翔の靴を受け取って、もう一度立ち上がる。隼翔を抱えなおしていると、再び遥翔に呼ばれた。今度は何だ。頼むから早く帰らせてくれよ、と内心でごちる。それを顔に出さないように気をつけながら、どうした?と聞けば、遥翔は、これ、と小さな手に抱えられていた私のマフラーを差し出した。

「あ、ヤベ。」

そういえば遥翔に預けたのを忘れていた。どうりで首周りが寒い訳だ。今から巻こうにも、両手は隼翔を抱っこしているせいで塞がっている。仕方ないから、そのまま遥翔に持たせるか、私のカバンにつっこませるかして帰るしかないか。
諦めた瞬間、口を開いたのはスガせんせいだった。

「貸して。」

遥翔と目線を合わせるようにしゃがんだ先生が、手を伸ばす。きょとんとしている遥翔に説明するように、先生がにっこりと笑う。

「先生が名前ちゃんにかけてあげるよ。」
「え!?や、いいですよ、そんな、」

スガせんせいの申し出に私は慌てた。いや、そんなスガせんせいにかけてもらうなんて、申し訳ないし、それに、

「だって、外寒いし。風邪引いたら困るべ?」
「いや、別にそれくらいじゃ、」
「それに、見てて寒そう。」

ここ、と先生が自分の首の後ろを指差す。黒髪のベリーショート、という髪型の私は首周りが剥き出しのまま外気に晒されている。ジャージのファスナーを一番上まで閉めていても、さすがに首までは覆えない。
私が一人あわあわしているうちに、スガせんせいは遥翔からマフラーを受け取っていて、おいで、と手招きされる。

ぐ、と言葉を飲み込んで、スガ先生に近づく。スガ先生の腕がす、と伸びる。思った以上に先生との距離が近くて、思わず息を飲む。心臓が何故だかどきどきと脈を打つ。ふわり、とマフラーをかけられて、スガせんせいが離れた。

「あ、りがとうございます。」
「どういたしまして。気をつけてね。」
「スガせんせい、ばいばい!」

遥翔がもう一度手を振る。ひらひらと手を振ったスガせんせいにぺこりと頭を下げてから、ようやく背を向けて歩き始める。遥翔を置いていかないように、ゆっくりと歩く。
遥翔がいなかったら、私はきっと、また走っていただろう。心臓がどきどきうるさい。スガせんせいの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。あぁ、もう、一体どうしたっていうんだ、私。