沈黙が辺りを支配する。入口付近に立っていたスガさんの足が、一歩、一歩とゆっくり近付く。私はただ黙ってそれを見ているだけ。何かを言おうと口をぱくぱくと動かすけれど、動揺と軽いパニックで言葉は一つも出てこない。その間にも、スガさんはゆっくりと、でも確実に近付く。靴を脱いで畳に上がる。カバンを置いて、また歩く。正座のまま動けない私の目の前に立ったスガさんが、ゆっくりと両膝をついて腰をおろす。

「スガさ、」
「ごめん。全部聞いてた。」

何を言えばいいのか分からなくて、ただただスガさんを見つめる。苦しそうなスガさんの表情に私の息が詰まる。私、最近スガさんのこんな顔しか見てない。そうさせているのは私なのに。それがたまらなく寂しいなんて。勝手にも程がある。

「ごめんな。俺のせいでいっぱい混乱させちゃったな。」
「ちが、」

謝らないで。スガさんのせいじゃない。私が、私が怯えてばかりいるから。だから。

「俺が怖い?」

スガさんに真っ直ぐ見つめられる。こんな風にきちんと目を合わすことさえ、すごく久しぶりのような気がする。

ふるふる、と首を横に振る。怖くなんかない。

「抱き締めても、いい?」

一つずつ、確認しながらスガさんが歩み寄ってくれている。いつぞやに牧に言われた言葉を思い出す。二人で歩幅を合わせて進んでいく。そうか。あの言葉は、こういうことだったんだと、今更になって理解する。

「ぎゅ、ってして欲しい、です。」

伝えると同時に肩を引き寄せられて、抱き締められる。ぎゅう、と背中に回された腕が温もりがたまらなく愛おしい。私もスガさんの背中に腕を伸ばして抱き締めてみる。スガさんの腕に込められた力が更に強くなる。汗の混じったスガさんの匂いに包まれて、幸せだと全身が喜んでいる気がする。温もりも腕の強さも匂いも、その全てが愛おしくて幸せ。こんなにも幸せなのに、どうして怖いなんて思っていたんだろう。
スガさんの腕が緩んで、顔を覗きこまれる。至近距離で見つめられて、それからゆっくりとスガさんの顔が近付く。目を閉じると、そっと唇に柔らかいものが触れる。一瞬だけ触れて、離れる。もう一度触れて、今度は角度を変えながら何度も啄むように触れる。
冷たく濡れた舌先に、そっと唇を舐められる。思わず口を開くと、その一瞬の隙をついてスガさんの舌が入ってきた。抱き締めてくれていたスガさんの手はいつの間にか、私の後頭部を支えていて、その優しい手とは反対にスガさんの舌が私の舌を絡めとるように触れる。呼吸さえ奪われる程の口付けに、息をした瞬間に声が漏れる。

「んっ、は、」

ディープキスなんて他人事だとずっと思っていた。ただ舌を絡めて何がいいんだろうと不思議だった。だけど、今スガさんとのキスに思考回路が蕩けていく。どろどろに溶かされて、あぁこれが気持ちいいってことなんだと頭の何処かで理解する。
不意にとん、と肩を押されて体が後ろに傾く。抗う間もなくそのまま後ろに倒れる体。スガさんが支えてくれていたお陰で、頭を打つことはなかった。唇が離れて、閉じていた目を開ける。スガさんの綺麗な顔のドアップ。その後ろにあるのは見覚えのない景色。視界の端に映るスガさんの白くてでも筋肉質な腕と、畳の緑。そこでようやく自分が押し倒されたのだと悟った。分かって、急に恥ずかしくなって顔が一気に上気する。どうしよう。私、今絶対顔真っ赤だ。心臓がばくばくとこれまで経験したことのない早さで脈を打つ。
スガさんの手がそっと私の首筋を撫でる。思わず、ぎゅ、と目を閉じる。スガさんの指先が首筋を辿って、鎖骨へと滑る。くすぐったいような、ぞくぞくするような感覚に襲われる。

「怖い?」

静かに尋ねられて、ゆっくりと閉じていた目を開ける。不安そうなスガさんの目と視線が交わる。ふとスガさんの目元にある黒子に目がいって、それに触れてみたい衝動に襲われた。ゆっくりと手を伸ばして、その頬に、黒子に触れる。

不思議だと思った。あんなに怖がっていたのに、いざこうなってみると恐怖心なんて微塵もなくて、その代わりにもっと触れてみたい、触れて欲しい衝動に駆られている自分がいる。
まるで、恐怖心もあのキスで、スガさんに溶かされてしまったみたいだ。

「怖くないです。」

大丈夫。そう笑って言うと、スガさんの顔がふ、と和らぐ。あぁ、この顔、やっと見れた。

「よかった。」

呟いたスガさんにゆっくりと抱き起こされて、また抱き締められる。

「スガさん?」

抱き締めていた腕を解放されて、額をこつんと合わせる。に、と笑ったスガさんと至近距離でまた目が合う。

「さすがにここで襲うわけにはいかないべ。」

ちゅ、と唇が触れてすぐに離れる。

「さ、そろそろ帰ろうか。」

私の頭をくしゃりと撫でてから、スガさんが立ち上がる。伸ばされた手を掴んで私も立ち上がる。
その手を強く引き寄せて、私の方からスガさんの唇に一瞬触れるだけのキスをした。スガさんの顔が驚きに見開かれて、赤くなる。

「ふは、スガさん顔真っ赤。」
「そんなこと言うのはどの口かな?ん?」
「ふがふがが、」

スガさんに両頬を押しつぶすように掴まれて喋ることが出来ない。

「んー?何言ってるか分かんないなぁー。」

ぱ、と手を離されると同時に、右手を繋がれた。

「スガさん!」
「ほら、帰るぞ。」

繋がれた手をくい、と引っ張られて歩き出す。
何度も何度も見てきたやさしい笑顔。その笑顔を見る度に何度もときめいて、その度に好きになった。初めて見る表情を見た時は、またときめいたり、時には怯えたり。バカな私だから一人でぐるぐる考えて、突っ走ったり、手に負えないと我ながら思うけれど。
だけど、迷ったり立ち止まったり、間違えたり。回り道をしながらでも、一緒に歩いていけたらいい。歩幅合わせて、二人でゆっくり。
そうやって歩いていこう。





歩幅合わせて
(ゆっくり歩いていこう)