「名字!」

私の意思など無視して時間は過ぎて、季節が少しずつ変わっていく。テストが終わって夏休みが来て、ほんの少しだけ勉強から解放される。スガさんたち男バレが東京遠征へ行って今日でやっと六日目。遠征へ行く日、皆の前にも関わらず、スガさんと一週間も会えないなんて耐えられない、と喚いた後に思いきり抱き締めてもらったのは記憶に新しい。スガさんが帰ってくるまで、あと少し。あと少しの辛抱で、あの笑顔に会える。あの腕に抱き締めて貰える。きっとまた先を歩くスガさんに会える。あと少し。あと少し。何度も言い聞かせて、寂しさを紛らせる。
そうして過ごして、一人練習から帰ろうとした所を後ろから呼び止められた。

「牧。」

と、もう一人、牧と同じバスケ部でクラスメイトでもある進藤がそこにはいた。進藤もまた、恒例となった昼休みのバスケ仲間の一人だ。そういえば二人もしばらく自主練していたような。

「今、帰りか?」
「そうだけど。」

何?と問えば、一緒にファミレス行こうぜ、と進藤に誘われた。

「腹減ったし、飯食いながら宿題やろうと思ってさ。」

牧の言葉で、二人の言わんとしているその意図が分かった。二人共進学クラスとはいえ、正直その成績は芳しくない。あわよくば教えて欲しい、といった所だろう。

「二人共見た目チャラそうなのに、実はその返真面目だよね。」
「うっせ。」
「いいから行こうぜ。」
「奢ってくれるならいいよ。」

冗談半分で言うと、彼らは顔を見合わせたあと、何かを覚悟したように頷いた。

「分かった、奢る。」
「だから宿題教えてくれ!」

がばっと頭を下げた二人に一瞬目を見張った。まさか本当にご馳走してくれるとは思ってなかった。だけど、悪い話じゃない。どうせ私とて宿題はやらなければならない訳だし、スガさんがいない寂しさを一人で紛らすよりは、二人とバカな話をしながら宿題を教えて過ごす方が気が楽だ。

「いいよ。」

嬉しそうに顔を上げた二人と、一時間後に着替えて指定されたファミレスに集合することを約束して別れた。




「だからここはこっちの公式使ってさ、」

とん、と数学の教科書を指す。私が指した場所を見て早くも理解したらしい牧はそうか、と呟いて手を動かす。一方の進藤はまだ分かっていないようで、眉間に皺を寄せた。

「あーっ、もう分かんね。ちょっと休憩しようぜ。」

持っていたシャーペンを机の上に転がして、進藤が伸びをする。腕時計を見ると、宿題を始めてちょうど一時間が経過している。確かにそろそろ少し一息ついてもいいかもしれない。未だに問題と格闘している牧の手元は、滞ることなくすらすらと動いていてこれなら程なく終わりそうだ、と判断して私も伸びをした。ずっと机に向かっていたせいでこり始めていた肩が伸ばされて気持ちがいい。

「そういや、名字はどこまでいったんだよ?"スガさん"と。」

牧のきりがつくのを待っていたのか、牧の手が止まると同時に進藤が口を開いた。
どこまでって、一番遠くてこの前の初デートで行ったスポーツ用品店くらいだろうか。というか、あれ以来どこにも出かけていないし。

「どこに出かけた、とかっていうボケはいらねぇからな。」
「あれ、違うの?」

進藤の言葉に首を傾げると、彼はあからさまに呆れ顔をした。牧は無言でジュースを飲んでいいる。

「んなワケねぇだろ。男と女がどこまでいったって話になったら、恋のABCに決まってんだろ。」
「それ言い方古くね?」
「ABCって。」

牧と二人で吹き出すと、進藤はうるせぇな、と悪態をついた。

「で、どうなんだよ?もうヤッたのか?」

あまりに品のない物言いに思わず顔を顰めた。下ネタが嫌だとか苦手だとか言うつもりはないけれど、もう少し言い方というか何かないのだろうか。ストレートにセックスとか言われるよりはずっとマシではあるけれど。

「まだ。」
「え、マジ?」
「でもまだ二ヶ月とかそれくらいだろ?確か。別にまだでも不思議じゃないんじゃねぇの。」

牧の言葉にそうだよね、と安堵する。それにしてもよく付き合ってる期間分かるな、と疑問に思ってすぐに、そのきっかけになったのは他の誰でもない牧からの告白だったと思い出す。彼はまだ未練を抱えていたりするのだろうか。最近はバスケ部の可愛いマネージャーといい感じらしいと噂に聞くし、部活中垣間見る二人の雰囲気は確かになんだかいいように見えるのだけれど。牧はどう思ってるんだろう。

「俺だったら一ヶ月でも我慢出来ないね。」
「そんながっつくからお前すぐフラれるんだろ。」
「だって、彼女と二人きりとかなったらやっぱ触りてぇじゃん!そしたら、そのまま押し倒してぇとか思わねぇ?」

進藤が牧に同意を求めると、牧はまぁな、と頷いた。でもそこはもう少し我慢しろよ、と釘を刺されて進藤が項垂れた。
牧もそうなのか。じゃあスガさんもそうだったりするのかな。触りたいとか、それ以上のこと考えてたりするのかな。

「じゃ、キスは?さすがにそれはもうしただろ?」
「それは、うん。」

まだ数えるくらいだけど。全然慣れないけど。

「ディープは?」

ディープキス。互いの舌を絡め合う行為。他人事のように噂で聞いたり少女漫画で見たりするだけで、それを経験したことはない。興味がない訳でもないけれど、噂に聞く程その行為にどんな魅力があるのか、いまいちぴんとこないのが正直な本音だ。スガさんのキスはいつも触れるだけの優しいキス。私はそれだけで十分幸せだし、心臓はドキドキしてはちきれそうなのに。

黙り込んでしまった私を見て、二人がマジで?と口を揃える。

「それは…、スガさん結構我慢してるんじゃねぇの?」
「え?」
「ないわー。俺マジ耐えらんねぇ。」

牧と進藤の表情が哀れみに歪む。
我慢、してるのかな。私がそうさせちゃってるのかな。私が鈍感だから?バカだから?どうしよう。私から迫ってみたりとかした方がいいのかな。でもそんなのどうやって。胸なんてほとんどないし、こんな貧相な体でどうやって誘えるんだろう。そもそもスガさんは私の貧相な体になんて興味なんてあるのだろうか。

「名字。」

牧に呼ばれて、ぐるぐると負のスパイラルに陥りかけていた思考が一旦停止する。

「一人で焦って突っ走るなよ。」
「え?」
「お前のことだから、一人でどうこうしようとか考えてんだろうけどな、」

そういうことじゃねぇだろ、と言った牧の言葉の意味が分からなくて、ただ無言で牧の顔を見つめた。進藤も理解できていないようで、二人してバカみたいに牧の言葉の続きを待つ。

「そういうのって、二人で歩幅合わせて進んでいくもんだろ。お互いにちゃんと意思の疎通をはかりながら。」

牧の言葉を一つ一つ噛み締めながら飲み込んでいく。歩幅を合わせて。意志の疎通をはかる。お互いに。

「確かにスガさんは我慢してるかもしれねぇけど、そうじゃなくて、お前のこと待ってくれてるって考えるべきなんじゃねぇの?」
「待ってくれてる、のかな。」
「少なくとも今のお前に、スガさんとそういうことする覚悟あるのか?」

不意にスガさんの誕生日の夜のことを思い出す。初めて見たスガさんの熱を含んだその目に射られて、怯えた自分。あれ以来スガさんのあの目を見たことはないけれど、またあの視線に射抜かれたら私はどうするだろう。怯えずにいられるだろうか。受け止められるだろうか。触れるだけの優しいキスのその先は、完全なる未知の領域。知識として漠然と知っているだけの現実味のない行為。怖くないといえば嘘になる。

「まだ、少し、怖い、かも。」

興味がない訳じゃない。だけど、好奇心以上に今はまだ恐怖の方が勝る。

「だったら焦るな。焦りが何も産まないのは、何でも同じだろ。」
「…すげぇ、大人だなお前。」

感心したように呟いた進藤に私も頷く。同い年なのに、牧はずっとずっと大人だ。それでいて優しい。いい男だと改めて思う。
焦るな。歩幅を合わせて進んでいくんだ。スガさんと一緒に歩いていきたいから。

ねぇ、スガさん。もし我慢させてしまっているのだとしたら、もう少し、もう少しだけ待って下さい。いつかきっと心の準備をして覚悟もするから。






歩幅合わせて
(いつだってきっと合わせてくれてたんだね)