「スガさん、帰りましょー。」

いつもの集合場所の部室棟の下で待っていても誰も来ないので、不思議に思って男子部の部室の扉を開けた。

「あ、悪い、名字。もうちょい待ってて。」

そこでは勉強会が開かれているようで、スガさんはノヤっさんに教えている所だった。近付いてそっと覗きこんでみると、スガさんが説明しながらその綺麗な手でノートの上にさらさらと数学の解き方を書いていく。いいなぁ、スガさんに勉強教えて貰えて。私も何か教えてもらいたいなぁ。いやでも、スガさんと一緒に勉強とか、スガさんが気になって勉強どころじゃなくなる自信がある。

「あ、ちょうどいいや、名字、ちょっといい?」

縁下に手招きされて、今度は彼に近付く。その隣で田中がうんうん唸っている。縁下は田中に構うことなく、徐ろに自分のカバンから一枚のプリントを出した。見覚えのあるそれは今日返却されたこの間の物理の小テストの用紙だ。

「この問題なんだけど、よく分からなくてさ、」

縁下が指さした問題は、何問かあったその小テストの中で一番難しかったものだ。私も解けなくて、部分点をかろうじて貰えただけだった。授業中に、返却と同時に先生がしてくれた解説でやっと分かったけれど、それでも難しかった。

「あぁ、これ難しいよね。」

これを説明するのは私もちょっと大変だ。とりあえず荷物を下ろして、縁下の隣に座った。カバンからシャーペンとルーズリーフを一枚取り出す。
プリントに書かれた問題を見ながら、簡略化した
図を書く。物理はとかく図を書きながらその中に分かっている情報を整理していくのが定石だ。

「ここにかかる力がこうで、」

縁下の反応を伺いながら、彼を置いてきぼりにしないように説明をしていく。そうして丁寧に説明し終えてから縁下を見ると、彼は満足そうに頷いた。

「あぁ、そういうことか。なるほど、助かったよ。ありがとう。」
「いやいや、どういたしまして。」
「これ、もらっていい?」

先程まで説明に使っていたルーズリーフを手にとった縁下に、どうぞ、と促すとさっきまでうんうん唸っていた田中の不思議そうな顔と目が合った。

「名字って実は頭良かったんだな。」
「実は、って何。」
「てっきり俺たちと同じだと思ってたぜ。」
「ほっほーう。ケンカ売ってるの?田中。売られたケンカは買うよ?」

指をぱきぽきと鳴らしていると、誰かに頭を小突かれた。

「こらこら、やめなさい。」
「スガさん!」

ぱっと顔を上げると、呆れ顔のスガさんが立っていた。ノヤっさんへの説明は終わったらしい。

「名字はバカだけど、勉強はできるよ。」

だてに進学クラスにいるわけじゃないよ、と縁下がしれっと言った。

「縁下サン、それ褒めてるの?貶してるの?」
「一応褒めてるつもりだけど。」
「じゃあもっとストレートに褒めてよ!」
「俺に褒められなくても、菅原さんに褒めてもらえれば名字は十分でしょ。」
「まぁね!」
「そういう所がバカって言われるんだよ。」
「何おうっ!」
「落ち着け、名字。」

スガさんに後ろから羽交い締めにされている間に、縁下はプリントを片付け終えていて、田中に向き直っていた。縁下はイイヤツだけど、ずけずけと言いたいこと言ってのける辺り、タチが悪いというか、強いというか。スガさんはスガさんで、またノヤっさんにつかまってしまったようで、私から離れてしまった。
急に手持ち無沙汰になってスガさんを待っている間どうしようか、と思案していると、おずおずと声をかけられた。

「あのう、名字さん…、」

声のした方を振り向くと、山口がノートを持ってしゃがんでいた。

「どした?」

出来るだけ優しいトーンになるよう気をつけて言えば、あの、とノートと一緒に持っていたらしい教科書を差し出した。懐かしい英語の教科書の表紙に思わず、ふ、と笑みが溢れた。

「あのう…俺も教えてもらっていいですか…?」
「どれ?」

にっこり笑って促すと、彼は少し安心したようにほっと表情を緩ませて、ぱらぱらと教科書をめくった。ここなんですけど、と示された場所について解説をすると、真剣に聞いていた山口の顔がふっと綻ぶ。あとここもなんですけど、と次から次へと出てくる質問に内心で苦笑いを浮かべつつ答え終わると、山口は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございました。」
「どういたしまして。また何かあったらいつでも聞きにおいで。」
「はい!」

ツッキー、俺名字さんに教えてもらったよ、と嬉しそうに月島達のもとへ戻っていった山口を見送る。何かかわいいなぁ、と一人で小さく笑う。

「なーに、笑ってるの?」

上から降ってきた声に顔を上げると、既に帰り支度を済ませていたスガさんがいた。

「いえ、何でも。」
「そ?じゃあそろそろ帰るべ。俺たちも自分の勉強しないと。」
「そうですね。」

いそいそと荷物を片付けると、カバンを掴んで立ち上がる。スガさんのあとについて部室を出ると、二人並んで歩く。いつもは途中まで一緒に帰る大地さんと旭さんはどういうわけだか今日はいなくて、スガさんの左手が私の右手に触れる。その手を握ると、スガさんの左手と指を絡めるように繋がれた。

「今日は大地さんと旭さんは一緒じゃないんですか?」
「たまには二人で帰りたいな、と思ってさ。」

にっこりとスガさんが笑う。その優しい笑顔に、私もつられてへらりと笑う。

「でも正直、名字が勉強できるのは意外だったなぁ。」

田中じゃないけどさ、とスガさんが笑う。

「スガさんまでそんなこと言うんですか?」

わざとらしく不貞腐れてみせれば、ごめんごめん、と笑顔のまま笑ったスガさんを少しだけ睨む。

「でも考えてみれば、縁下の言った通りだよね。俺に勉強教えてくれって泣きついてきたこともないもんなぁ。」
「…でも、さっきスガさんに教えてもらってたノヤっさんがちょっと、てか、だいぶ、羨ましいとか思いました。」

正直に白状すると、スガさんははは、と笑い声を上げた。

「じゃあ、今度一緒にやるべ?」
「え、いや、でも、私自分の勉強進まない自信があるんですけど、」
「何で?」
「いや、何ていうかその、多分スガさんばっかり見ちゃうような気がして、」
「…名字は変な所で素直だよなぁ…。」
「へ?」
「じゃあ名字が俺に慣れるまで、一緒に勉強はもう少しお預けかな?」
「そうしたら一生無理かもしれないです…。」

ふい、と顔を逸らして呟いた。
スガさんと付き合うようになって、一緒にいる時間が今までよりほんの少しだけ増えたけれど。距離が近くなって、触れ合う回数は増えたけれど。ハグだってキスだって、少しずつ少しずつ慣れてきたような気がするけれど。でもいつだってドキドキして、いっぱい見ていたくて、キスなんてした日には今でも心臓が飛び出そうな程ドキドキばくばくするのに。慣れる、なんて。いつかそんな日が来るのだろうか。今のドキドキがなくなってしまうなんて、それはそれで寂しい。

「それは何だか複雑だなぁ。」

そう言ったスガさんの横顔は、眉が下がっていて、何だか寂しそうに見えた。

「スガさん、」
「ま、ゆっくりやってくべ。」

な?と私の顔を覗きこんだスガさんの顔からは、さっき感じた寂しさは消えていて、いつもの優しい笑顔だった。






焦らずゆっくり
(私達のペースで進めばいい)