「綺麗な手だねえ。」

ぽつりと呟くように隣の席から聞こえた声が、まさか自分に向けられたものだとはこの時は全く思いもしなかった。ただの独り言か、あるいは他の誰かに対して言ったものだと思っていたのに。

「出来ればもっと近くでよく見せてくれませんか。」

菅原サン、と続けられた言葉に驚いて声の主を振り向いた。ついでに触っていたスマホを落としそうになって、慌てて掴みなおす。振り向いた視線の先にいる隣の席の女子、名字名前は何故か目を爛々とさせてこちらを見ている。三年になって初めて同じクラスになった彼女とは、これまでほとんど話したことはない。

「やっぱダメ?」

少し眉を下げた彼女に、何と答えるか迷う。ダメ、とも言えないし、かといって、すんなりいいよ、と言うのも如何なものか。

「え、っと、何で俺の手?」

悩んだ結果、とりあえず手を見せるかどうかは保留にして聞いてみた。

「さっきから見てて、綺麗だなって思ったから。」

何の躊躇いもなく答えた名字の言葉に、内心で首を傾げる。

綺麗ってなんだ?俺の手が?

「私好きなんだよね、男の人の綺麗な手。筋張った感じとか、血管が浮き出てるのとか。」

好きなのは別に手だけじゃないんだけど、と続けた彼女の表情はどこかうっとりとしている。反応に困っている俺なんてお構い無しに、彼女はぺらぺらと喋り続ける。

「鎖骨とか二の腕とか、腰骨っていうの?、あの腰ギリギリのラインとかもいいよね。女の子だったら、程よくくびれたウエストとか綺麗な脚もたまんないよねえ。」

前半はよく分からないけど、後半のウエスト云々は確かに分からなくもない。曖昧に頷く俺の相槌などもはや彼女にはどうでもいいのか、何かスイッチが入ったように語る彼女の言葉をとりあえず聞いてみる。

「ダビデとかミロも美しいんだけど、やっぱり生身の人間ならではの美しさっていうかさ、」
「ちょっと待って、ダビデとかって、誰?」

不意に出てきた、外国人を思わせるカタカナの名前に戸惑う。美術室にある、石膏のダビデ像のことだと教えて貰ってようやく理解する。理解した所で、名字の話は止まらない。どうやら本当にスイッチを押してしまったらしい。そのスイッチが何だったのか、俺にはよく分からないけれど。

「そこにエロを感じないかって言ったら、そりゃあ正直感じるし、ドキドキするし、でもだからこそ惹かれるっていうか、何て言うかもう、そういう色気も造型美も全部含めてたまんないよね!」

いや、そんな自信満々に同意を求められても。

そうだね、とも言える筈もなくて、言葉を濁しているとがばっと勢いよく名字が頭を下げた。

「なので、その素敵な手を是非拝見させて下さい!」
「嫌、かな。」
「何で!?」

つい反射で断れば、あからさまに残念そうな顔でこちらを見上げる彼女と目が合って、思わず笑ってしまった。

「身の危険を感じたから?」
「何もしないよ!見るだけだよ!」

いや、ちょっと、あわよくば触ってみたいとか思ったけど、とごにょごにょ呟く彼女に、また笑いを溢す。少しだけなら、と手を差し出してみるか、あるいはこのまま嫌だと断り続けるか。どちらの方が面白いだろうか、と思案している内に休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。

しずしずと机に向き直る名字の姿を横目で見つつ、残念だ、と内心で苦笑いする。

名字名前。
単なるクラスメイトで、たまたま隣の席になっただけの女の子。とりわけクラスの中で目立つタイプではないし、むしろどちらかといえば控えめなタイプだろう。それでも、初めてまともに彼女と話をした(話の内容がまともだったかどうかは置いておいて)この日が、多分始まりだったのだ。