あの朝から二週間。及川とは一度も連絡を取ることも、顔を合わせることもなかった。及川から事情を聞いたらしい岩泉が、あの日の夜連絡をくれて及川の代わりにあのバカが悪かったと、岩泉がする必要のない謝罪をしてくれた彼はやっぱり優しくて気が利いて男前だと思った。どこぞの及川とは大違いだ。

私の方から謝るつもりはない。
謂れのないことで一方的になじられたのはこちらの方なのだ。もし仮に及川と付き合っていたのなら、何とも思っていない相手とはいえ他の男と二人で飲んで朝まで一緒にいたなんてことは怒られて当然だと思う。でもあくまでも及川の立ち位置は私の友人なのだ。私が及川をどう思っていても、その気持ちを及川に告げたことは一度としてない。及川からも何かを言われたことはない。それならば私たちの関係は友人と呼ぶに相応しい筈だ。だとすれば、あんな風に及川に責められる謂れはないという私の主張は間違っているのだろうか。

ずず、と目の前のコーヒーをすする。直接会って話がしたいと言って私を誘ったのは及川の方だった。ざわざわと人の話し声に包まれた店内で、私の正面に座った及川は運ばれてきたコーヒーにも手をつけずにずっと黙り込んでいる。そんな及川を眺めつつ、私も何も言わずにゆっくりとコーヒーを飲むだけ。正直、間がもたない。ケーキでも頼もうかなぁとテーブルの隅に立て掛けられていたメニュー表に手を伸ばした時だった。

「名前ちゃんごめんッ!!」

及川の声に、伸ばしかけていた手がぴたりと止まった。及川の方を見やれば、彼は頭を深々と下げた状態で制止している。テーブルにその額がつくのではという程に垂れた頭に、伸ばしていた手を引っ込めた。

「名前ちゃんの話何にも聞こうとしないで俺、酷いこと言ったよね。」

ホントごめん。

繰り返された謝罪の言葉に、遅いよ、と呟く。

「及川が謝ってくるの、どれだけ待ったと思ってるの。」
「ごめん…、」
「及川が一言謝ってくれたら、それでさっさとおしまいにするつもりだったのにさぁ。」

何でごめんって言うだけで二週間もかかるの?

ゆるゆると顔を上げた及川に、眉を下げて笑う。及川の顔には戸惑いが浮かんでいて、私はまた笑う。

「名前ちゃん、許してくれるの?俺あんなに酷いこと言ったのに。」
「そりゃあ傷付いたし腹も立ったけど、最初から許すつもりだったよ。」

怒りに任せて及川の頬を叩いてしまった負い目もあるし、という言葉は飲み込んだ。それから、岩泉からのフォローに少なからず救われたことも。

「でもさ、一つだけ、聞いてもいい?」
「何?」

謝罪を終えてすっきりしたのか、それとも私に許されたことにほっとしたのか、及川がようやくコーヒーに口をつけた。それに釣られるように私もまた一口コーヒーを喉へと流し込む。

「何であんなに怒ったの?」

喧嘩両成敗とはよく言うし、私から謝るつもりはなくても及川が謝ってくれたらそれで手打ちにするつもりだったことは本当だ。そこに嘘偽りはない。だけどずっと気になっていたのだ。そもそもどうして及川はあの日あんなにも怒ったのだろう。後になって思い返してみれば、あの日の及川の言葉は嫉妬に似ていたように思う。そんな感情を、どうして及川は私にぶつけたのだろう。

だって及川は私の気持ちなんて気付いてないし、友達としか思っていないんでしょう?

「あー…、言わなきゃダメ?」
「言いたくないならいい。」

今度は及川が困ったように眉を下げて笑った。それからまた一口コーヒーを飲んで、何やら思案するようにうんうん唸り出す。そんな及川を横目で見つつ、やっぱり今になってケーキが食べたくなった私はメニュー表を取り出した。ぱらぱらとページをめくってスイーツが載っているページを探す。

「焼きもち妬いたから。」
「は?」
「名前ちゃんのハジメテをアイツに奪われたって思ったら、どうしようもなくムカついたんだよねぇ。」

アイツにも、俺にもね。

そう言って及川がふふふ、と笑う。メニュー表を持ったまま固まって二の句を告げずにいる私に及川は尚も穏やかに笑いかける。

「名前ちゃんのこと誰にも渡したくなくて、渡すつもりもなかったのにさ、横からどこの馬の骨とも分かんないヤツに取られたことも、つまんない意地張ってた俺自身にもムカついちゃって。挙げ句名前ちゃんに八つ当たりして傷付けたなんて手に負えないよね。」

こちらを見たまま笑う及川は少し照れ臭そうで、自嘲しているみたいだ。そんな及川に私は何を言えばいいのか分からず固まったまま。というか、及川の話していることが理解出来ていない。

「俺、名前ちゃんのこと好きだよ。もうずっと、何年も前から。他の誰にも渡したくないくらいにさ。」
「うそ、」
「嘘じゃないよ。名前ちゃんだって本当は薄々気付いてたんじゃないの?俺の気持ち。」

大きく目を見開いた私を、及川が真っ直ぐに見つめる。その顔は微笑んでいるのに、私を見つめる目は全てを見透かしているみたいで息が詰まる。

及川からの好意を全く感じていなかったといえば嘘になる。高校三年のあの日及川に抱き締められたあの腕も表情も、大学に入ってからも私に触れる手の優しさも、からかうような目や言葉も、そのどれもがくすぐったくて暖かくて優しかったことを私はちゃんと気付いていた。他のどんな彼女よりも私を優先して、私には弱さを見せてくれていたことも。

だけどそれが私を迷わせた。及川の手は、目は好きだって言ってるみたいに錯覚してしまうのに、肝心の好きという言葉はくれなかった。私には好きと言ってくれないのに、彼女はとっかえひっかえ作ってその度に見せびらかすみたいに私に報告してきたから。

だから全部気のせいだと思うことにした。何も見ないふりをして、言葉も気持ちも飲み込んだ。いつか別の誰かを好きになれるその日まで誰にも内緒で隠し通すつもりでいたのに。

名前ちゃん、と及川が穏やかな声で私を呼んだ。その声に、大きく開いていた私の目が微かに揺れた。

「俺のものになってよ。俺だけ見て。俺だけを好きでいて?」
「…傲慢っ、」
「知らなかった?」

ニヤリと笑う及川は意地が悪い。

「…私、及川が好きだなんて一言も言ってない、」
「でも好きでしょ?俺のこと。」

そんなの知ってたよとでも言うように微笑む及川の顔が、ここまでくると憎らしい。隠してたつもりで、本当に見透かされていたというのか。

一体いつから?
いつから私の気持ちに気付いていたの。いつから私の気持ちを知らないふりをしていたの。

私はいつから及川のその手の上で踊らされていたの。

ああ、もう、好きだと言われて嬉しい筈なのに。ずっと欲しかった言葉を手に入れられたっていうのに。こんなに悔しくてたまらないなんて。

「好きだよ。好きだから、及川こそ私だけを見ていてよ。よそ見なんてしたら許さないんだから。」

きっ、と及川を睨む。そんな私の強がりさえ、及川にはきっとお見通しなのだろう。勿論、と微笑んだ及川の唇が緩やかな弧を描く。

「最初から、俺は名前ちゃんしか見てないよ。」

嘘つき。

そう吐き捨てた私の顔が赤いことだけは、どうか気付かないでいて。