「名字ー、もう一軒行こうぜー。」
「行きません。」

そんなにべろべろなのにまだ飲むつもり、と隠しもせずに吐き捨てる。肩に腕をかけ右腕で支えている隣の男、安藤は覚束無い足取りでよたよたと歩く。今から数時間前、友人の安藤とは大学の図書館でレポートの調べ物をしていた時に偶然居合わせた。そのまま何となく一緒にレポートをやり、お腹も空いたし折角だから一緒に夕飯を食べようという話になったので結局は大学近くの居酒屋で二人飲みをして今に至る訳で。安藤とは今までにも何度も共通の友人を含めた飲み会で一緒に飲んだ事がある。確かに酒に強いという印象はないものの、彼なりに配分を考えて飲んでいるタイプだと思っていた。故にこんな風に彼がぐでぐでに酔っている所は初めて見る。店を出る前に見た腕時計が指していた時間は午前1時近く。大学から徒歩圏内に住んでいる私と違い、安藤は確か実家組だった筈だ。この時間ではもう終電もないだろう。

「つーか何で終電なくなるまで言わないの。言ってくれたらさっさと切り上げたのに。」
「名字といたかったからでーす。」
「バカじゃないの。」

時間を気にしなかった、終電があることに気付かなかった私もバカだ。気付いていればこんな面倒を抱えずに済んだだろうに。とはいえ、今さらいくら後悔したって時間が戻る訳じゃない。とりあえずは始発までの時間を潰せる場所を探さなくては。

「どうする?これから。」
「もう一軒、」
「行かない。それ以上飲んだら吐くよ。」

じゃーあー、といつになく上機嫌の安藤がへらへらと笑いながら私の顔を覗き込んだ。

「ホテル行っちゃう?」
「放り捨てるよ。」

ぎろりと睨み、私の肩にかけられたままの安藤の腕を思いきり摘まんでやる。

「いって!ちょ、そんな怒んなよ。」
「バカなこと言うからでしょ。漫喫とカラオケどっちがいい?」
「カラオケー。」

朝まで歌おうぜー、と陽気な安藤に、はいはい、と適当な相槌をしながら近くのカラオケ店へと向かって歩く。金曜の夜だしもしかしたら一杯だろうかと一瞬心配したが、そんな必要はなくすんなりと部屋へと案内された。安藤だけ置いてさっさと帰るつもりでいたけれど、その安藤に名字も一緒に歌おうぜ、と絡まれてしまった。結局未だ足元の覚束無い安藤を連れて指定された部屋に入り、ソファーに座らせる。安藤を部屋に残し、二人分のグラスを持ってドリンクバーに向かい烏龍茶を二つのグラスに注いでまた部屋に戻る。本当に歌うつもりらしく嬉々としてタッチパネルを操作している彼の前にグラスを置いた。それをちらりと一瞥してサンキュー、と言った安藤にどういたしまして、とだけ返す。安藤とは少し離れた位置に腰を降ろし、左肩にかけたままだったバッグもその横に置いた。
流れていた広告の動画がぴたりと止まって、最近流行りのバンドのイントロが流れ始める。

「名字も入れろよ。」
「んー。」

もう一台のタッチパネルをすい、と私の前に差し出される。それに手を伸ばしつつ、先程注いできたグラスの烏龍茶に口をつけた。






くあ、と口も塞がずに欠伸をする。あれから結局、朝まで二人でとも一睡もせずカラオケを満喫してしまったので尋常じゃなく眠い。お酒を飲んだ後に歌ったせいか喉も枯れている。安藤の方はといえば、歌いながらソフトドリンクを飲んでいる内にいつの間にか酔いも覚めたようで、しっかりとした足取りで駅へと向かって歩いて行った。それも、世話かけて悪かったな、という謝罪つきで。カラオケ店の前で別れたその背を適当に見送り眠気を噛み殺しながら歩いてきて、家まではあと少しだ。一刻も早く帰って眠りたい。シャワーも浴びたいけれどそんな体力は残っているだろうか。せめて化粧は落とさないとなぁ、等とぼんやり考えながら歩く。途中で立ち寄ったコンビニでペットボトルのお茶とサラダ、おにぎりを買った。帰って一度寝て起きたら食べるつもりだ。今日はバイトもないしそれなりにゆっくり出来るだろう。

「あ。」

恋しい我が家まであと少しという頃、見慣れたジャージ姿に思わず声が漏れた。その声が聞こえたのか、あるいはただの偶然か、ジャージ姿の男がこちらを振り向き、ぱちりと目が合った。

「おはよー、及川。」
「おはよう。」

ひらひらと手を振って及川に歩み寄る。朝練?、と問いかけた私の声はやっぱり掠れている。歌いすぎたなと内心で苦笑する私に、及川はにっこりと笑いかけた。

「名前ちゃんが一人で朝帰りなんて珍しいね。」
「まぁ、ちょっとね。」
「声まで枯らしちゃってさぁ、そんなに良かったの?」

アイツとの夜は。

にこにこ笑っていた筈の及川の笑みが、一瞬にして冷たい笑みに変わる。

「何、言ってるの?」
「見たよ、昨夜名前ちゃんが男と仲良さげに一緒に歩いてた所。」

安藤のことだろうとすぐに理解するけれど、及川がこんな風に冷たく笑う理由が分からない。

「声が枯れるまでアイツの前で泣いてよがったの?ハジメテだったのに。」
「だから何の話?」
「アイツのこと好きなの?そりゃそうだよね、処女を捧げたくらいだもん。ねぇ、アイツのどこがいいの?」
「及川、ちょっと待って、さっきから何言ってるの?別に安藤とはそういうんじゃ、」
「好きでもないのにシたの?そんなに捨てたかった?だったら俺に言ってくれれば良かったのに。」
「及川、」

及川を見上げてその名前を読んでも彼の口は止まらない。まるで私を傷付けるためだけみたいに、心ない言葉ばかりを紡ぐ。

「酔った勢いで適当な男と処女喪失?名前ちゃんてそんなイタイ子だったんだね。」

言葉よりも先に手が動いていた。ぱんっ、と乾いた音を立てる。手のひらがじんじんと痛い。冷笑したままの及川は私を見下ろしたまま微動だにしない。

「何で及川にそこまで言われなきゃなんないの。ていうか、安藤とはただ飲んでカラオケに行ってただけで何もないし、勝手な想像でいい加減なこと言わないでよ。」
「…。」
「それに、仮にそうだったとしても及川には関係ないでしょ。」

及川を見上げて睨んでいた顔をふい、と逸らした。及川が何を考えて何を思っているのかなんて分からないし、今は知りたくもない。するりと及川の横を通り過ぎる。

私は一度も及川を振り返らなかったし、及川もまた私を追いかけることはなかった。