「そういえば、傷の具合はどう?」
「ぅえっ!?」

唐突に及川に尋ねられて、変な声が出てしまった。貼り変えようと手にしていた大きめサイズの絆創膏が、ひらりと落ちる。私が拾うよりも早く、及川がそれを拾う。絆創膏を持っている手とは反対の手の、彼の指先が私の手に軽く触れた瞬間、ばっと勢いよく自分の手を引っ込めてしまった。不思議そうな顔の及川と目が合って、途端に気まずくなってしまう。

「名前ちゃん?」
「っえ、あ、いや、何でもない、ごめん、」

何でもないなんて嘘だ。及川の指が触れた瞬間に、わずか一週間程前のあの朝のことを思い出してしまった。傷を視界に映す度に、及川が僅かに触れる度に、思い出してしまう。手のひらを這った舌の感触や、及川の手の温度、吐息まで。今でも鮮明に思い出せてしまうそれらは、酷く官能的だと考えて、またたまらなく恥ずかしくなる。

「もしかして思い出しちゃった?」

とても楽しげに口許を歪めた及川の言葉に、一気に顔が熱くなる。図星を指されて、反論することもできない。そんな私の反応を楽しんでいるのか、可愛いねえ、とくすくす笑いながら、及川がそっと私の手を取る。

「結構治って来てるね。」

良かった、と微笑んで、絆創膏を貼り変えてくれる彼の手つきは酷く優しい。私をからかって、反応を楽しんでいるその目も言葉も、少しも優しくないのに。

「それで?」
「え?」

小さな声でありがとう、と呟いて、頭から被っていたバスタオルに手を伸ばす。未だ半乾きのままだった髪を拭きながら及川を見上げれば、ニヤニヤ顔でこちらを見ている。今日は私の部屋に泊まりに来ていた及川と岩泉は、とうにシャワーを浴び終えて、リラックスモードだ。

「名前ちゃんは何回思い出したの?」
「ッ、」

また顔が熱くなる。ふい、と顔を逸らして、言わない、と吐き捨てれば、及川が、ふうん、と意味深に声を漏らす。

「言わないってことは、何回も思い出したんだ?」

その度にドキドキした?

明らかにからかいを含んだ声は、探るようでもあって、たまらなく居心地が悪い。沈黙は肯定同然だと分かっていても、頷くことなんて出来る筈もなく、かといって言い返す言葉も見つからなくて、ただ黙って髪をガシガシとタオルで吹き続ける。

「まだ気にしてんのかよ。」

呆れたような声で呟いたのは岩泉だ。だって、と顔を上げた視線の先の岩泉は、さして興味もなさそうに缶ビールを煽っている。

「ちょっと舐められただけだろ?犬にでも噛まれたと思えば、大したことじゃねえだろうが。」
「犬って何!?俺、犬なの?」
「そんな簡単に割りきれないから困ってるんじゃん!」
「世の中、もっと凄いことしてる奴なんてごまんといるだろ。」

凄いことって何、と問えば、岩泉は表情一つ変えずに、セックス、と答える。あまりに明け透けな言葉に、思わず言葉を失ってしまった。及川はといえば、まあ確かにねー、と呑気に頷いている。動揺しておろおろしているのは、どうやらこの場には私だけらしい。

「そ、りゃあ、二人は経験豊富なのかもしれないけどさ、」

こちとら、この歳になってもキスもまだの、未経験者なのだ。彼女がいて、色々と経験済みなのだろう二人の足元にも及ぶ筈がない。かといって、興味がない訳ではないし、でも他の誰かとなんて考えたこともない。

「別に、俺も経験豊富って訳じゃねえけどな。ただ、そこまで過剰反応する必要もねえだろ。」
「分かってないなあ、岩ちゃん。一々反応してくれるから、可愛くてたまんないんじゃん。」

知らないことを一つずつ教えてあげるのもいいよねえ、とうっとりと続けた及川に、エロ親父みたい、と溢す。名前ちゃんヒドイ、と泣き真似をする及川は無視して、ぽつりと呟く。

「経験値が増えたら、ドキドキしなくなるのかなぁ。」

そうしたら、あんな風に及川にからかわれたりしなくなるのだろうか。私一人が意識して、動揺したりしなくなるのかな。

「ダメ!そんなの絶対ダメだからね!」

がしっ、と私の両肩を掴んで、必死の形相でダメだと訴えかける及川に、はあ?、と顔を歪めた。

「名前ちゃんはそのままでいいの!他の野郎とどうこうなんて、俺が絶対に許さないからね!!」
「何で及川の許可がいるの。ていうか、誰のせいで、」

こんなことになってると思うの、と言いかけた言葉を、慌てて飲み込んだ。誰のせいで、二十歳を越えても経験値ゼロのまま生きてると思ってるの、なんて言える訳がない。目の前のこの男だけには。絶対に言えない。何も言わないと決めたのだから。

「元はといえば、及川が私をからかうからでしょ。」

髪乾かしてくる、と続ければ、及川の手が離れていく。それを確認して立ち上がろうとすると、何故だか及川に制されてしまった。

「俺が乾かしてあげるよ。」

ドライヤー取ってくるから、ちょっと待ってて、と私が止める前に、及川が立ち上がって洗面所へと向かうべく、背中を向けた。

「いや、いいよ、」
「俺がしたいの。それに名前ちゃん、手痛いでしょ?」

くるりとこちらを振り返って、にっこり笑みを浮かべると、次の瞬間には、私が二の句を告げる隙も与えずに、及川は今度こそ洗面所へと消えてしまった。そうして、ドライヤーを手に戻ってきた及川が私の背後へと座る。音を立てて吐き出すドライヤーの風の温度も、私の髪を乾かす及川の手も、心地よくてつい目を閉じる。

優しく髪に触れるその手が、私だけのものになればいいのに。

そんな叶うはずもない願いは、ずっとこの胸に秘めたまま、誰も知らなくていい。誰も知らないまま、いつかきっと静かに消えていく。

私はただ、その時を待っている。