ゆるゆると開けた目に、最初に映ったのは及川の端整な寝顔だった。息がかかりそうな程近い距離で、静かに寝息を立てている。この距離にも、状況にも、動じなくなったのはいつからだったろう。それこそ最初の頃は、叫びながら大慌てで及川から距離を取っていたというのに。その度に、うるせえ、と岩泉に何度怒られただろう。叫ばなくなって、怒られなくなって、どれくらい経ったのだろう。

互いに示し合わせた訳でもないのに、三人とも同じ大学に受かって、三人ともそれぞれ一人暮らしを始めて。それも三人揃ってご近所さんになった時は、もう笑うしかなかった。そうなれば、三人の誰かの家に、暇を見つけては集まるようになるのはおそらく必然だったのだろう。それでも、集まりだした頃はまだ、遅い時間になってもそれぞれの家へと帰っていた。それがいつからか、誰かが寝落ちするようになったりして、泊まることがさも暗黙の了解のように、当たり前に変わっていった気がする。

今回も例に漏れず、岩泉の部屋に昨夜、及川と集まって、及川が持ってきたバレーの試合を録画したDVDを見ながら飲んだ結果がこれだ。部屋の主である岩泉は自分のベッドで眠り、私と及川は床で雑魚寝。寝る前には、確かに及川と距離を取っていた筈なのに、目が覚めると毎度、彼は私の目の前にいるのだから、一体どうなっているのだといつも思う。私が寝入ったその後で、及川が近付いているのか、あるいは無意識に移動しているのか。多分前者なのだろうが、それならばどうして岩泉は及川を止めてくれないのだろう。及川が制止を無視しているのか、言った所でどうせ聞きやしないと匙を投げているのか。これについては、どちらの可能性もありそうだ。

それにしても。

目が覚めた時からずっと気になっていた、私の腰の上に乗せられている及川のこの腕はどうしたものか。とりあえず、その手を掴んで退かしてみようにも、びくともしない。それどころか、その腕にぐい、と体ごと引き寄せられて、更に及川との距離が近付いた。

「っわ、ちょっ、」

慌てて両手で及川の肩を押し返して距離を取ろうとしても、やはり叶わない。距離を取ることはおろか、抜け出すことも出来なくて、もがいてみても及川の腕が離れる気配はない。身じろぎする度、鼻を掠める及川の匂いに、私の心臓はいちいち跳ねてうるさい。動揺を隠したくてもがけばもがく程、及川の匂いや温もりを意識してしまって、これじゃあ悪循環だ。

「っ、離せ、この、」

これだけ強い力で私を拘束しているのだ、未だ寝ているということはないだろう。それでも及川の両目はしっかりと閉じられていて、起きるつもりも、私を解放するつもりもないらしい。狸寝入りを決め込んだらしい及川に、仕方なく私は奥の手を使うことにした。平静を装うために、ゆっくりと息を吸って吐き出した。

「起きないとチューするよ。」

岩泉が、と続ければ、ぱちりと及川の目が開く。

「嫌だよ!何で朝から岩ちゃんにそんなことされなきゃいけないのさ!?」
「及川が変なことするからでしょうが。」
「俺を巻き込むんじゃねえよ。」

いつの間にか起きていた岩泉が、及川の背中を蹴飛ばす。痛ッ、と及川が声を上げた瞬間に、私を抱き寄せていた腕から力が抜ける。その時を見逃さず、するりと私は及川の腕の中から抜け出した。未だばくばくと響いている心臓を宥めようと、及川に背を向けて小さく深呼吸を繰り返す。

「何で蹴るの!?」
「お前が悪ィからだろ。」
「チューするって言ったの、名前ちゃんじゃん!」
「その元凶はお前だろうが。」

クソ川が悪かったな、名字、と岩泉が入れる必要のないフォローを入れて、私の横をするりと通り過ぎて洗面所へと姿を消した。相変わらず、どこぞのクソ川と比べて岩泉は紳士だ。彼女がいるにも関わらず、あんな風に私に簡単に触れて悪びれもしない及川とは段違いに紳士的で優しい。一定の距離を崩すことなく保ったまま、及川の一挙手一投足に動揺する私をからかうでも揶揄するでもなく、ただ助けてくれる。それに一体何度救われただろう。

ようやく落ち着きを取り戻した所で、ゆっくりと立ち上がる。部屋の脇に追いやっていたローテーブルの上に置かれたままのビールや酎ハイなどの空き缶や空き瓶に手を伸ばした。両手で持てるだけ持って、キッチンへと運ぶ。私が持ちきれなかった残りの缶たちは及川が運んでくれた。それを受け取って、じゃぶじゃぶと水で洗い流す。

「名前ちゃんさ、」
「うん?」

洗う手は止めないで及川の言葉の続きを待つ。少し冷たい水の温度が気持ちいい。

「さっき、すごいドキドキしてたでしょ?」
「ッ、」

ゴトッと、中に少し水を含んだ缶がシンクに落ちた。すかさずそれを拾ってまた洗うけれど、顔が熱い。

「耳まで真っ赤。」

かーわいー、と私の隣に立って嬉しそうな声で笑う及川の腕が微かに触れる、私の肩までもが熱い気がする。

私一人だけがドキドキして、動揺して、余裕がなかったことが恥ずかしい。それを及川に気付かれていたことも。

「名前ちゃんのそういう初な所、可愛くていいよねえ。」

楽しげな及川の言葉に耐えられなくなって、手近にあった空き瓶の首をひっ掴む。赤くなった顔を見られようと、この際構わない。これ以上動揺していた数分前の自分をつつかれて、居たたまれない思いをするよりはマシだ。

「それ以上言ったら殴る!」
「ちょっ、待って!名前ちゃん、それはヤバイって、俺死んじゃう!」

勿論本当に殴るつもりなんてないけれど、掴んだ瓶を振りかぶるフリをした。その瞬間、水に濡れていた手がつるりと滑って持っていた瓶の首の位置が下がった。手のひらに走った鋭い痛みに、思わず手を離す。

「いっ、」
「大丈夫、名前ちゃん!?」

私の手を離れて落ちた瓶を、床へと落ちる前に及川がすかさずキャッチしてくれる。それをキッチンに置いた及川が、私の手首を掴む。緩く開いた手のひらには真っ赤な血が滲んでいて、瓶が滑った時に締めたままだったキャップの縁で切ったのだろう。うわ、と顔を顰めたのと同時に、及川の顔が私の手のひらに近付いた。温かな呼吸を手のひらで感じた瞬間、生暖かい物がぬるりと這って、私は全身が膠着したように動けなくなってしまった。