自転車を走らせて、最寄り駅近くのコンビニへと足を踏み入れるとすぐに、私を呼び出した張本人、及川と目があった。ジュースを一本買ってコンビニを出ると、少し歩かない?、と誘われた。断る理由もなくて、お互い無言のまま街灯がぽつぽつと照らす夜道を並んで歩く。

バレーのルールなんて全く知らなければ、興味もなかった私が、岩泉と及川と一緒にいるようになって。彼らの試合だけは見に行くようになったのが一年の頃で、あの頃は自分の将来も何も考えていなかったのに、気が付いたら今また一つの人生の岐路に立っている。バレーのルールだって覚えて、純粋に観戦が楽しいと思い始めたあの頃は、いつの間にか随分遠くなってしまった。

こんな日がいつか訪れるなんて、あの頃は考えてもいなかったのに。その時は私が思うよりもずっと早く、彼らが来るなと願うよりもずっとずっと早く来てしまった。

「何も言わないんだね。」

先に口を開いたのは及川の方だった。何となく彼の顔を見るのが怖くて、地面に視線を落とす。私が押して歩く自転車のタイヤがカラカラと音を立てながら回る。

「今の及川にかけられる言葉なんて持ってない。」

正直に答えても、及川は何も言わない。何かを言いたくても、何を言えばいいのか分からないのに。それでも、彼は私の言葉を待っているような気がして、言葉を探す。

「私は、何も知らないから。似たような経験なんて私はしたことないし、練習だって一度も見たことないし。及川達が今までを、今日をどんな気持ちで過ごしてきたかなんて、その全部を正確に知ってる訳じゃないのに、」

いい加減な推測で、いい加減なこと言いたくない。

ぽつりと呟いた声は、気持ちは届いているだろうか。それとも、それらしい言葉を並べて逃げているだけだと幻滅されているだろうか。それならそれで仕方ないと思う。引退という一つの終わりを迎えた彼を、私の言葉で更に傷付けてしまうのが怖いのは確かなのだから。

「それとも、頑張ったね、とか、よくやったよ、とか、当たり障りの無さそうなこと言った方がいい?」

そんな言葉でもいいから欲しいっていうなら、いくらでも言ってあげる。それで寄り添えるなら。

及川を見上げて、冗談めかして小さく笑って見せれば、徐に彼が立ち止まる。

「及川?」

無言でこちらを見た及川が、一歩、彼に倣ってたちどまった私に近付く。訝しげに彼を見つめたまま動けないでいると、その長い腕が伸びて抵抗する間もなく抱きすくめられた。

「わ、ちょ、何!?」

突然のことに目を白黒させて硬直している私の肩口で、及川がくすくすと笑う。どうして及川に抱き締められているのかも、彼が笑っているのかも分からなくて、一人で狼狽える。

「やっぱり名前ちゃんいいよねえ。俺、そういうトコすごい好き。」
「はあ?何言ってんの。ってか、離して、」
「もうちょっと。もうちょっとだけ、」

このままでいさせて。

そう呟いた及川の声が、途端に切なさを含んでいて、思わず口を噤んでしまった。こんな所誰かに見られたらどうするの、あの美人な彼女はどうしたの、とか言いたいことはあるのに、一つとして口に出せそうにない。無言で私の首筋に顔を埋めている彼が、私に縋っているようで、何かを口にすればそんな彼を冷たく突き放してしまうような気がする。

ばくばくと耳元で騒ぐ心臓を宥めるように、そっと目を閉じた。酷く緊張していることを、せめて及川に悟られないように、小さく深呼吸をする。
彼にかけられる言葉を持ち合わせていない私でも、今必要とされているなら出来うる限り応えたい。ただこうして近くにいることで彼が僅かでも救われるのなら。だけど、彼女でもないただの友人がこんな風に一緒にいるなんて間違ってる、と理性と本音がせめぎあう。それでも身動きが取れない私は、多分及川が思う以上に狡くて汚いんだろう。

どれ程の間そうしていたのか、しばらくして及川がゆっくりと体を離した。帰ろうか、送っていくよ、と微笑んだ彼に、一度は遠いからいい、と断ったものの、一人で帰らせるなんて嫌だ、と結局押しきられてしまった。
待ち合わせた時と同じように、またお互い無言で歩く。その空気が微かに和らいでいるように感じるのは気のせいだろうか。

「…ああいうのって普通、彼女に頼むことじゃないの?」

出来るだけ責めるような口調にならないよう意識しながら口を開いた。美人な彼女が出来たって嬉しそうに話してたじゃん、と続ければ、笑いを含んだ声で、嫌だよ、と及川が答える。

「あんな及川さんなんて、絶対彼女には見せたくないね。」
「そういうのを見せられるのが彼女じゃないの?」

私の言葉には何も答えず、ただ黙って意味あり気に及川は微笑んだ。それきり口を閉ざしてしまって、また沈黙が広がる。

どうしてあんな風に抱き締めたの。彼女じゃなくて、私に縋ったのはどうして。彼女には見せたくない弱さを、どうして私には見せたの。

直接はっきりと聞けない私は狡くて弱い。だけど、肝心なことを何一つ話そうとしない及川も、多分同じくらい狡い。

お互いに本音を隠したまま、何かが捩れて歪んでいくような気がした。