アイツには内緒ね。岩泉も手出さないで。

その言葉を名前儀に守ってくれているのか、あの会話以降、岩泉の態度も及川のそれも変化は見られない。相変わらず及川は何かにつけて軽々しく絡んでくるし、度が過ぎればそれを岩泉が制してくれる。事情を知っていながら、彼の意思を飲み込んで、あくまでも仲のいいクラスの男子という体を崩さずにいてくれている岩泉には本当に感謝でいっぱいだ。ケリが着いたら、一番に岩泉にお礼をしようと密かに決めた日々の中でも嫌がらせは変わらず続いている。

「名字、制服はどうした。」

目敏くジャージ姿の私に気付いた担任が、名指しで問いかけた。

「トイレに行ったら天井から水が降ってきてびしょ濡れになったので着替えました。」

こちらをちらちらと見ながらくすくすと笑う女子達の声は聞こえない振りをして、事実だけを淡々と答えれば、担任は何を言っているんだ、という顔をする。それ以上の返答を持ち合わせていない私は、だんまりを決め込んで顔を背けた。そんな私の態度を汲み取ってくれたのか、それ以上の追求はせずに授業を始めてくれたことに私はほっと息を吐き出した。


水をかけられたら着替えればいいし、教科書やノートに落書きされたり隠されるなら、全部持ち帰ればいい。嫌がらせを受けていると言っても、自己防衛の手段がない訳ではないし、必ずしも対処出来ない訳じゃない。涼しい顔で受け流していれば、そのうち向こうの方から飽きるだろう。

というのは、どうも甘い目論見だったらしい。

さっさと帰って今日もゲームの続きをやろうと、いそいそと帰り支度をしていた所に同じクラスの女子数人に呼び止められ、連れてこられた空き教室。その中で思い切り突き飛ばされて、机や椅子もろとも音を立てて倒れ込んだ。

「マジでアンタ何なの?何されてもへらへら笑ってるし、及川君達にはべったりだし。」

呻きながら上体を起こそうとすると、その肩を踏みつけられる。

「いった、」
「及川君に近付くなって分かんないの?」
「すっげぇウザイんですけどー。」
「目障りだからさ、ちょっとここで大人しくしていてくれない?」

私が何か言うよりも早く、ぐり、と私の肩を踏む足に力が込められる。そしてようやく足が離れたと思えば、彼女達は足早に教室を出ていった。次いで聞こえた、カチャリと錠のかかる音に背筋が冷える。

「マジか、」

思わず溢れた呟きを嘲笑うように、ドアの向こうでくすくす笑う声が聞こえる。気が向いたら開けてあげるよ、と楽しげに笑う声が遠ざかっていく。その声を聞きながら、はああ、と盛大に溜息を吐いた。ゆっくりと起こした体を手近にあった机に預けて項垂れる。

「ここまでするかぁ、フツー、」

言いたいだけ文句を言って、人を突き飛ばした挙げ句その肩を踏むとか。その上周囲に人気のない空き教室に閉じ込めるとか、尋常な思考とは思えない。
ゆっくりと首をもたげてぐるりと周囲を見渡してみるも、黒板向かって左側に窓があるだけで、その他は壁に囲まれている。ここが一階ならば、迷わず窓からの脱出を試みただろうが、あいにく三階だ。自力での脱出は無理だな、と早々に諦めて、さてどうしたものかと思案する。
入学して暫くの頃は何人か話を出来る女の子がいたが、嫌がらせが始まると同時に、私と話をしてくれる女の子は一人としていなくなってしまった。恐らく私をここへ閉じ込めた彼女達が無視をするよう指示したのだろう。あるいは、私に関わることで自らに火の粉が降りかかるのを回避したいのか。いずれにしろ、彼女達を責めるつもりはないし、助けてなどと言うつもりもないのだから、私からすればどちらでも構わない。
同じ中学出身の知り合いも何人かはいるが、悲しいかな、連絡先まで交換しているほど仲のいい人物はいない。好き好んで選んでいるのだから、狭い友人関係に不満を抱いたことはないけれど、こういう時は友人の少なさが痛いものだと、しみじみ思った所でどうすることも出来ない訳で。

ふう、と小さく息を吐いて、制服のポケットからケータイを取り出す。画面を操作して、最近及川によって作られた岩泉と三人のライングループ画面を表示させた。今いる教室の場所と閉じ込められた旨だけを簡単に入力して送信する。恐らくもう練習が始まっているだろうから、少なくとも終わるまでは二人が気付くことはないだろう。

「どーするかなー、」

ぽつりと呟いて天井を仰ぐ。自分ではどうすることも出来ないと諦めているからか、そのうち何とかなるだろうという楽天的な思考故か、無駄に足掻くことを放棄した脳はぼんやりしている。その上あくびまでもがこみ上げてきて、くあ、とそれを噛み殺した。そういえば昨夜は遅くまでゲームをしていたせいで、今日は寝不足気味だったことを思い出す。手持ち無沙汰なことも相まって、少しだけ、と目を閉じた。