及川徹という男は、気が付くとかくも自然に私の日常に入り込んでいた。

「名前ちゃん、岩ちゃん見てない?」

初めて会ったときと同じように、廊下側の窓から顔を覗かせた及川に声をかけられる。最初のうちこそは一々驚いたりもしていたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。ちらりと及川を見やった後で、くるりと教室の中を見渡す。

「いないみたいだね。」

トイレにでも行っているのか、あるいは他の事情なのかまでは私の知った所ではない。とりあえず見たままを答えれば、じゃあ名前ちゃんに英語の辞書借りようかな、と及川が微笑む。ちょっと待ってて、と言い置いて立ち上がると、自分のロッカーへと向かう。

「ねえ、名前ちゃん、今日の放課後さ、」
「断る。」
「ちょ、俺まだ何も言ってないじゃん!」

ロッカーから取り出した辞書を、一緒に着いてきていた及川に差し出した。

「またバレー部見に来て、でしょ?行かない。バレーとか興味ないし、そもそもルールもよく知らないし。」

練習見に来てよ、行かない、というやり取りを、ここ最近何度も繰り返している。何度誘われた所で私の返事が変わることなどないのに、及川はどうも諦めが悪いらしい。そこまで私一人が見に行くことに固執する理由も正直よく分からない。

「バレーは興味なくても、及川さんがいるでしょ?」
「え?」
「え、って、何、その冷たい顔。」

いや、と小さく呟く。

「それがどうして見に行く理由になるのかと。」
「だって、バレーしてる及川さん見たらきっと、」
「興味ない。」

ばっさり吐き捨てると、あからさまに及川が傷付いたという顔をした。そうして、嬉しそうに笑みを浮かべる。

「そういうはっきりしてぶれない所、ホント岩ちゃんそっくりだよねえ。」

にこにこ笑う彼に、ありがとう、ととりあえず答えておく。

「そろそろ教室戻らなくていいの?」
「あ、ホントだ。辞書ありがとね。また後で返しに来るから。」

ポケットから取り出したケータイで時間を確認した及川が、じゃあね、と手を振る。それに小さく手を振り返してから、彼が背を向けたのを見届けて席へと戻った。



あの抜群のルックスと人当たりの良さが多分女の子を惹き付けるのだろう。及川が女子から絶大なる人気を誇っていることは、本人と知り合う前から噂で知ってはいた。だからこそ、下手に関わりたくなかったと今更嘆いた所で、全ては後の祭りでしかない。たまたま同じクラスになった岩泉と馬が合ってしまった時点で、この展開は避けられない運命だったのかもしれない。いや、それでも及川が私のことなど気にも留めずにいてくれたら、避けられたかもしれないと思うのは、責任転嫁だろうか。

「名字、これ及川から。」

体育の授業を終えて、更衣室から戻るや否や、岩泉に声をかけられた。差し出されたそれは、数時間前に私が及川に貸した辞書で、私がいない間に返しに来たらしい。

「ありがと。」

次の授業まではそれほど時間も残ってないし、あとからロッカーに戻そうと、岩泉から受け取ったそれをとりあえず鞄の中に放り込んだ。

「次って何だっけ?」
「古文。」

短く返ってきた返事にうえ、と溢す。体育の後の古文とか眠いよね、と笑いながら、教科書とノートを机の中から引っ張り出して無造作に置いた。

「お前、それ、」

途端に聞こえた訝しげな声に、はっと気が付く。机の上に置いた古文の教科書の表紙には、黒のマジックででかでかと死ねと書かれていて、表紙も含め中のページはしわしわになっている。慌てて教科書をひっくり返して、その上にノートを重ねて上から手のひらで押さえ付けた。

「今の何だよ?」
「何でもない。大丈夫。」

大丈夫だからと繰り返して、へらりと笑う。当然そんな言葉で納得などしてくれない岩泉が、嫌がらせされてるのか、としかめ面で核心をついてくる。そりゃそうだよなあ、と内心で自嘲して、まあ、ね、と苦笑いを浮かべた。彼の前でのこれ以上の否定は多分無意味だ。だったら私の意向も含めて黙認してもらう方が賢明だろうと、すかさず判断する。

「及川か?」

声をひそめてくれる辺り、彼は私の置かれている状況を正確に察知してくれているらしい。たったあれだけの少ない情報で理解しているのは、勘の鋭さ故か、あるいは過去に同じような前例を見たことがあるからか。どちらもありうるな、と勝手な推測をしながら、多分ね、と答える。

「アイツには内緒ね。岩泉も手出さないで。」

小声でお願いをして、本当に大丈夫だから、とにっこり微笑んでみせる。それでも岩泉が何か言おうと口を開いたタイミングで、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴って古文担当の教師が入ってきた。強制的に話題を中止する形になったことを、内心でラッキーと小さくガッツポーズをする。

心配してくれる岩泉の気持ちがわからない訳ではない。それでも今は誰の手を借りるつもりもないし、本当にまだ私の心は折れてなどいないのだ。